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 山鹿流と平戸藩

 山鹿素行(1622~85)は会津出身で、幼名を文三郎、名を高佑、号を素行と称しました。幼小より林羅山に入門し儒学を修め、小幡景憲、北条氏長らに甲州流軍学を学び、後に独自の山鹿流兵学を創始した人です。 
 のち「聖教要録」を著し、幕府の学問であった朱子学を批判し、赤穂に流されたのは有名な話です。また著書「中朝事実」によって天
皇を中心とした思想的な展開をみせ、後の勤皇思想に大きく影響を及ぼしています。
 平戸藩第29代松浦鎮信(天祥)は、素行と同い年のせいもあってか、江戸において互いの親交を深め、往来すること500回を超えたといわれています。
やがて鎮信自らも門弟となって、積極的に山鹿流を学びました。鎮信は素行を平戸にさそいましたが実現せず、代わりに素行の弟平
馬と、孫の高道両名を平戸藩に招き、平戸に山鹿流を伝えました。
 以後平戸藩は素行以来、幕末明治にいたるまで、山鹿流を藩学の柱としたのです。
 江戸後期1779年(安永8)第34代藩主清は城下に藩校「維新館」を創り、藩士の子弟教育にあてましたが、藩士子弟は13歳以上35歳までの入学を義務付け、従わない者は厳しく罰しました。清は維新館においてあえて「聖教要録」の刊行を幕府に願い出ましたが却下されています。
 幕末に活躍した吉田松陰も萩藩の山鹿流師範として平戸を訪れ、山鹿流宗家の門をたたいています。