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 山鹿流築城法と平戸城について

 伝承では平戸城は山鹿流築城法に則って築城したといわれますが
築城法による明確な姿は、実のところよく分かっていません。

 ただ、山鹿素行の関係文書を基に、平戸新城と山鹿流築城法の
関係についていえる事があります。城地の選定については「日の
岳城跡地に」ということですが、その他「縄張り」(配置計画)
や櫓、門、塀、などが山鹿流によって建設されたのではないでし
ょうか。



 平戸城の再築計画が表面化する以前、天祥鎮信は山鹿素行と共
に、砂型などを使って平戸城の縄張について協議を重ねていたと
いいます。

 このために平戸城の再築にあたっては、「縄張り」を山鹿流で
おこなったといわれ、「日の岳城」の石垣をたくみに使いながら
も、新城を完成させたのです。

○日の岳城からの変更点

 日の岳城は、亀岡の地形に無理なく縄張を施してあったようで
すが、平戸城の再築時に若干の改善がされました。
 大手門には新たに枡形門と大手櫓が配置され、その西側にあた
る新町口御門は渡り門になり、その根元部分にまで潮入の掘が拡
張され、巡らされています。現在平戸小学校が建つ場所は広く開
墾され平地となり、その上段にあたる三の丸の新馬場も同様に平
地が広げられました。

二の丸の搦め手門にあたる北虎口門と、その隣接する地蔵坂櫓の
位置が北側に移動し、乾櫓も新たに建てられ、乾櫓脇には脇虎口
といって、非常用の隠し門も設置されました。

 乾櫓と二の大手門の中間地点にも方啓門と枡形が新設されてい
ます。

 また、二の丸と本丸の隣接する部分については、石垣、塀土肥
などを新たに作って、隔絶化を図っています。

○その他

 山鹿流による縄張りのほか、「築城書」などに見える秘伝など
では、要所にその技法が使われていました。北虎口門から本丸へ
向かう北側の塀は、塀の基礎部分にあたる石垣に狭間(鉄砲窓)
が明けられ、「二重の狭間」であったようです。

 また、城内石垣の犬走りにあたる部分には、細い竹(寒竹)が
群生していますが、これは戦時において根元近くから鋭利に刈り
取られ、敵の侵入を防ぐとも、築城書に記載されています。

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