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 キリシタンの禁教から弾圧への流れ

 1567年キリスト教徒及び宣教師達にとって不幸な事件が起こってしまいました。根獅子教会の管理人であったトメー(元僧侶)が、領主一部氏の夫人の命により殉教したのでした。またこの年の6月12日平戸を巡回中のフェルナンデスが平戸において病没したのでした。(現在彼の埋葬地は不明です。)このころ上京していたフロイス、ロレンソは信長から布教の許可を得て、中央での活動を軌道に乗せ、平戸でも然したる障害も無く、布教活動が続けられていました。

 しかし、1582年、平戸キリシタンの最大の庇護者であった籠手田安経が没します。彼の死は平戸地方におけるキリシタンの大打撃であり、信者にとって平戸の領主松浦隆信に対しての最大の防波堤でした。キリスト教徒の今後が危ぶまれる中、一つの光明として1586年大村純忠の娘メンシア(松東院)が、松浦法印鎮信の嗣子久信に嫁いで来ました。
メンシア12才、久信15才でした。大村との和睦の證としての輿入れです。その後メンシアは平戸キリシタンの庇護者となっていきます。

 このように平戸の信者にとっても、不幸と幸が繰り返されつつ、中央でも次第に弾圧の傾向が強まりました。1587年7月、豊臣秀吉による宣教師追放令が発布されました。その主な内容は「日本は神国であるが、宣教師は日本国内で信者を思いのままに増やし、神社仏閣を破壊した。
故に二十日以内に国外に退去せよ。」というものでした。

 これは現在松浦史料博物館に保存されている松浦家文書の内容です。
この条文を皮切りにキリスト教は禁教の時代に突入していきました。秀吉は宣教師に対して、平戸からポルトガル船に乗って帰国するよう命じていますが、これに対し、クエリヨ以下全宣教師は平戸沖の度島(ナンドサンナンド=度島北側海岸)に集合し、協議の結果、中国に帰る者以外は、全員九州に潜伏する決意を固めています。 

 翌年、秀吉はイエズス会領であった長崎、茂木、浦上を没収し、鍋島飛騨守信生が長崎代官となっています。 一方、1590年、東インド管区巡察使バリニヤニは天正少年使節一行を伴って長崎に上陸、キリシタン信徒の組織化を図ると共に、各種の出版物を刊行し、翌91年2月には、秀吉と謁見しています。バリニヤニは帰途平戸に立ち寄り、メンシア松東院を訪ね、メンシアの信仰の深さに感激しています。そしてこの年の11月、メンシア松東院は松浦家の嗣子長男隆信(宗陽)を生み、松浦家内での存在を示し、夫久信の愛情をより強く受けるようになりました。

 しかし、1592年、松浦鎮信(法印)は領内の宣教師追放を命じ、いよいよ領内での禁教策が強まり、各地での取り締まりが始まろうとしていました。その反面、松浦隆信(宗陽)はメンシア松東院の熱い願いにより、籠手田定経の未亡人イザベラより受洗しています。このように1590年代の平戸は、禁教と信仰の入り混ざった状況にありました。

 1597年、いよいよ平戸のキリシタン取り締まりが、井元権右衛門によって開始されました。キリシタンにとって事態は最悪の結果となりました。それまでは度島全島がキリシタンと言うほど、熱心な信仰が続けられていましたが、この取り締まりによって、あるものは殉教し、あるものは逃亡もしくは転びといった具合いに度島のキリシタンは壊滅しました。長崎ではこの年の2月二十六聖人の殉教がありました。そして平戸キリシタンにとって決定的な出来事は1599年、平戸キリシタンの守護者籠手田一族600名(信者を含む)の追放(長崎亡命)でした。理由は法印鎮信の父隆信の葬儀に参列しなかったとのことですが、籠手田家は松浦家にとっても重要な家柄で簡単に処分出来なかったことと、一族の勢力と松浦家の内紛を避けるために、長崎亡命を認めたのではないでしょうか。
これで平戸のキリシタンは支柱を失い、殉教そして潜伏の時代に入っていくこととなりました。