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 殉教の時代から潜伏へ

 1613年、井上八郎兵衛は藩命により、生月キリシタンの世話役西玄可及び妻子を処刑しました。西玄可は籠手田氏の代官で、長崎退去後
の生月のキリシタン信徒の世話役として活躍した人物です。玄可は火刑を望んだといわれますが、父母の墓所黒瀬にて断罪、同地に葬られ
ガスパル様と呼ばれています。この年の夏、時あたかもイギリス商館が平戸に設置され、オランダ、次いでイギリスと、平戸が西欧との貿易の期待に沸き立っていたときです。

 翌年1月、徳川家康は切支丹の禁令を発布し、長崎の宣教師は総て追放され、大名高山右近は長崎に護送、11月にマニラに追放されています。そして平戸においてキリシタンを敵視していた松浦鎮信(法印)は5月に亡くなるものの、メンシアにより受洗した跡継ぎの平戸藩主隆信は幕命によって長崎の教会堂を焼却し、キリシタン信者を捕らえています。この事は母メンシアにとって筆舌に耐えがたい心境ではなかったでしょうか。

 1622年4月24日平戸でも宣教師潜入事件が発覚していました。イタリアイエズス会司祭カミロ・コンスタンツオが潜伏先の宇久嶋で捕らえられ、生月の宿主ジュアン坂本、ダミアン出口も連座して捕らえられたのです。司祭は1605年に来日し、14年に一時マカオに追放になっていたのでしたが、21年再入国し、潜伏して佐賀、唐津、平戸などで布教活動を行っていたのでした。この時捕らえられた坂本、出口両名は、5月中江の島において殉教。6月にジョアン次郎右衛門が中江の島で殉教しました。そして今回の事件の主人公カミロ・コンスタンツオは9月に田平において火刑となりました。

 1624年3月には、ジョアン坂本、ダミアン出口の家族が中江の島で殉教。その外、生月、薄香、川内、田の浦、追廻でもキリシタンの大殉教がありました。その後1630年になると平戸のキリシタンの最後の望みであった松浦松東院(メンシア)は幕府の命により宗族と共に江戸廣徳寺へ移りました。更に追い打ちを掛けるように1635年2月、薄香、獅子、根獅子のキリシタン72名が殉教しました。そして1639年平戸キリシタンにとっても、平戸藩にとっても重大なキリシタン嫌疑事件が発生しました。浮橋主水事件です。平戸藩を震憾させたこの事件はその後のキリシタン取り締まりはいうに及ばず、過去における海外交渉やそれに繋がる関係書類の隠滅などのふしが有り、現在の諸研究に大きな影を落としています。

 1645年、生月、獅子、根獅子、で最後の殉教がありました。
藩ではこの年より宗門改奉行を置き、踏絵が始められました。平戸の場合は長崎奉行所より踏絵を借り受け、実施していました。今、東京国立博物館に保存されている踏絵は、長崎奉行所よりの移管品です。
以後平戸のキリシタンは潜伏の時代へと入ります。