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 生月学講座 No.080「江戸時代、生月島内の石垣」

 以前、生月島の積石工の歴史は江戸時代まで遡る事を紹介しました。石垣積みの技術は古代から存在しますが、本格的に行われるようになるのは、戦国時代、織田信長や豊臣秀吉らとその配下の武将によって、畿内を中心に高い石垣を巡らした城が作られるようになってからです。こうした畿内系の積石技術は、平戸では16世紀末から17世紀初頭にかけて、黒子島の砲台や平戸城(日の岳城)の築城に際して導入されています。しかし、角のある山石を組み合わせて使う畿内系の積石技術に対し、生月島の積石技術は、海岸にある角の取れた石を使う点で異なります。そのため生月島の積石技術が、畿内系の系列に属するのか、独自に発達したものなのか、まだ分かっていません。

 生月島内においては、先年台風によって崩壊した山田の正田波戸が、構造上の特徴から基礎部分が江戸時代まで遡ると考えられていますが、その他に、絵画の中で確認できる石垣もあります。

 江戸の画家・司馬江漢は、天明8年(1788)末から翌1月にかけて生月島に滞在し、捕鯨や鮪大敷網漁を見学した際の記録を、寛政6年(1794)刊行の『西遊旅譚』に残しています。その中の「生月島之図」には、壱部浦の「益冨カ宅」の前に、海に突き出た石積みの突堤が描かれています。この突堤については、天保3年(1832)刊行の捕鯨図説『勇魚取絵詞』中の「生月一部浦益冨宅組出図」にも描かれ、益冨家の前から御崎浦に向けて出漁する船団を、船着場を守るように湾曲して延びる突堤の上から、大勢の人が手を振って見送る様子が描かれています。大正7年(1918)刊行の『生月村郷土誌』には、この突堤が「本波止、生月郵便局前の波止にして初め益富家の捕鯨の全盛期に築くところ也。東北側より七十余間西南側より十五間の築出をなし、其の中に約六百坪の水を抱けども 入波強くために宮田波止に劣るところあり」と紹介されていて、長さ百メートルを越える波止だった事が分かります。

 司馬江漢の油彩画『日本風景図』には、大敷網納屋が置かれた松本から眺めた風景が左右反転で描かれています。そこでは、左右から石積の突堤が延び、右側の突堤の先端には鮪見楼が立ち、左端には納屋の建物が描かれています。

 『勇魚取絵詞』の「生月御崎納屋全図」には、益冨・御崎組の納屋場が紹介されていますが、渚の鯨捌場を挟むように、先が尖った三角形(北側)と内側に湾曲した(南側)2本の突堤が描かれ、加工を行う納屋の建物群の前にも、護岸石垣とともに、渚に降りる2本の階段が描かれています。西海漁場の網組は、轆轤(ロクロ)という人力ウインチを、鯨体の引き上げのみならず解体にも用いていますが、轆轤の力を効率的に用いるため、轆轤を捌場を囲むように高所に据えています。納屋の建物や轆轤の基礎を固めるためには、頑丈な護岸を設ける必要があったのです。

このように生月島では、捕鯨や鮪大敷網などの大規模漁業に関連して、捕鯨納屋場、浦部や鮪大敷網の船着場に、突堤や積石護岸を設けた事が、江戸時代の絵画史料から確認できますが、こうした積石施設を作ったのも、生月島の積石工だったと思われます。