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 生月学講座 No.077「益富家住宅の構造」

 生月町壱部浦に所在する益冨家住宅は、江戸時代中期から明治初期にかけて、生月島を本拠地として壱岐や五島灘で操業を行った鯨組・益冨組の居宅です。平成16年に長崎県まちづくり景観資産に登録され、平成20年には県史跡に指定されました。壱部浦の密集した町並みの中に比較的広大な敷地を有し、主屋、座敷、恵美須神社(屋敷神)、御成門(藩主を迎えるための特別の門)などが残る他、かつて金蔵、網蔵、新屋敷などの建物が存在したと推定され、北側には庭園も広がっています。海岸道路からも雄大な切妻屋根が目立つ主屋は、雨漏りも発生して建物を傷める恐れがあったため、平成20年度に主屋根の修理を行い、今年度(平成21年度)は主屋根をとりまく下屋の修理を行っています。

 『先祖書』によると、益冨家(当初は「畳屋」という屋号を称した)は、享保10年(1725)に捕鯨業に着手していますが、当初は島南部の舘浦・宮の下を拠点としており、また益冨家の菩提寺も舘浦の法善寺なので、屋敷も当初は舘浦にあったと思われます。しかし享保14年(1729)に操業拠点(納屋場)を生月島北部の御崎浦に移しており、これに伴い、屋敷を御崎浦に近くて連絡の利点がある一(壱)部浦に移した事が想定されます。なお『先祖書』には、組の経営も軌道に乗った元文5年(1740)3月に平戸藩主が生月島を訪れ、背美鯨漁や、納屋、鯨捌きの様子を見学したという記述があり、その際に益冨家を訪問・滞在した事が考えられます。他の機会にも藩主が訪問した事は考えられるのですが、生憎公表されている資料では確認できず、幕末までの記述がある『先祖書』にも記録されていません。そのため、御成門が最初に建てられたのは元文5年(1740)である可能性が大きいかも知れません。

 益冨家居宅のたたずまいは、天保3年(1832)刊行の捕鯨図説『勇魚取絵詞』の中に描かれており、特に組出(出漁)の図には、御成門、座敷、蔵などが確認できますが、何故が一番目立つ筈の主屋が明瞭な形で描かれていません。当時の絵の常で、絵の上での配置の関係で向きを変えて描かれた可能性もあるのですが、実は同図説の苧縄綯いの図には、主屋の裏(西)側にある網蔵(現在痕跡と伝承が残る)とともに主屋の裏側の切妻の部分が描かれており、現存する主屋と同じ向きに建てられていたのは間違いないようです。ちなみに現主屋は棟札から嘉永元年(1848)に建てられた事が確認されています。

 以前の調査でも、主屋一階には元々南側に広大な土間空間が存在したようで、組主の居宅というより社屋に近い性格を有しているのではないかと指摘されていました。今回の下屋の修理でも、現在の下屋部分である主屋周りをめぐる廊下は当初の建物でなかった事が明らかとなり、おそらくは昭和初期に主屋を旅館に転用した時に設けたもののようです。そのため座敷も、現在は廊下で主屋と一体化した形になってますが、かつては明瞭に別棟の形であった事が考えられます。また現在、主屋西側に南に偏った形で小屋根を有する張り出し(風呂、便所)がありますが、かつては主屋の軸線上に延長して小屋根があった痕跡が残っていて、それは先の苧綯いの図に描かれた旧主屋の様子とも一致しています。このように修繕によって、主屋の構造や益冨組の歴史にも新たな光が当たりつつあります。