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 生月学講座 No.076「ガスパル西玄可の殉教」

 今年(2009)の11月14日は、生月島のキリシタン信仰指導者だった西玄可(洗礼名ガスパル)が妻子と共に処刑されて、ちょうど四百年にあたります。生月島山田の黒瀬の辻と呼ばれる丘の上には、大きな十字架型の祈念碑が立っています。ここは「黒瀬の辻殉教碑」といい、西玄可の殉教にちなんで平成4年(1992)にカトリック信者によって建てられ、毎年11月には祈念ミサが行われています。

 彼は弘治2年(1556)生まれですが、永禄元年(1558)頃、彼が住んでいた生月島山田を含む籠手田領では、ガスパル・ヴィレラ神父による一斉改宗が行われていて、彼もその際に入信したと思われます。彼の洗礼名のガスパルも、ヴィレラ神父のものをいただいた可能性があります。

 成長後の彼は、籠手田氏の家臣として生月島の籠手田領を管理していましたが、『1609年度イエズス会年報』によると、キリシタン領主だった籠手田氏が慶長4年(1599)に長崎に退去した後も、島に残ってキリシタンの指導に当たり、聖母の信心会の代表なども務めています。

 籠手田氏の退去後、生月島内は平戸松浦氏から派遣された井上右馬允が山田を、近藤喜三が舘の浜(舘浦)を支配しています。そうしたなか西玄可の娘は、近藤喜三の息子の嫁となっていました。しかしキリシタンの娘は喜三の棄教要求をはねつけ、最後には実家に帰ってしまいます。怒った喜三は、折しも居合わせた平戸・最教寺の僧侶に相談し、西一族が信仰を棄てない事を僧侶を通して松浦鎮信に訴えます。案の定鎮信は激怒し、一人の山伏に栽治権をもって生月に赴くよう命じ、奉行達とキリシタンの調査を行い、信仰を続けている者を死刑にするよう命令しました。

 西玄可は、山伏らの来島目的を知っても動ぜず、奉行井上の元に出頭して逮捕されます。彼は棄教を拒み死刑になる事が決まりますが、死に臨んでも彼の処刑に関与した松浦鎮信や近藤喜三を恨む事はせず、自らの意志でイエスの辿った道を歩みます。そして友人であった井上に、かつて山田の十字架が立っていた場所で処刑、埋葬して欲しいと告げ、慶長14年(1609)11月14日の朝、斬首されます。死体は信者によってキリシタンの作法で葬儀と埋葬が行われました。なお妻のウルスラや長男ジョアン又一も、連行途中で斬り殺されました。

昭和のはじめ、黒瀬の辻と呼ばれる丘の上に「ガスパル様の松」と呼ばれる大松が生えていました。松は戦後の松枯れで倒れてしまいましたが、カトリック信者はその芯で十字架を作り、山田教会にも掲げられています。松の根本には古い積石墓があり、ガスパル様の墓と言われ、ガスパル様が殉教し埋葬されたと言い伝えられ、かくれキリシタンの聖地となっていました。「黒瀬」という地名もクルス(十字架)の訛りで、かつてあった十字架に由来すると考えられます。山田には他にガスパル様の田と呼ばれる場所があり、ここで昔ガスパル様が農作業をしていたところ、船で役人が来るのが見えたため、自分の逮捕を察し、家に戻って身支度を整えて待ったという伝承があります。

西玄可と妻子は、昨年(2008)秋、カトリック教会によって福者に列せられています。