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 生月学講座 No.073「生月島民の戦争体験7 フィリピン沖海戦の記憶」

 壱部浦の山浦福義さんは、生月高等尋常小学校を卒業後、旋網の祐生丸船団に乗り込んで働きましたが、昭和17年4月に海軍に志願、佐世保の海軍機雷学校に入校し、潜水艦などを探知する役目の水中測的兵(水測兵)としての訓練を受けました。昭和19年1月に佐世保防備隊に配属され、暫く佐賀県馬渡島の防備衛所などで勤務の後、6月に特設砲艦「北京丸」に乗り組む事となりました。北京丸はもと客船でしたが、大砲や機銃、潜水艦を攻撃する爆雷や潜水艦を探す探信機を搭載し、日本と南方を結ぶ航路で船団を護衛する任務につきます。6月10日、北京丸は佐世保を出港し、下関で合流した船団とともに台湾、マニラと南下しますが、海南島の三亜で鉱石を積み込んでいた時空襲を受け、探信機が故障してしまいます。そのためマニラ寄港後、日本に帰る事になりましたが、ルソン島北西部のビガン沖で座礁した所を敵潜水艦から雷撃され、多数の戦死者を出し船は放棄されます。山浦さんも負傷しますが救助され、マニラの海軍病院で治療を受けます。
 その後佐世保に帰った山浦さんは、今度は軽空母「千歳」に水測兵として乗り組みます。昭和19年10月20日、千歳は他の3隻の空母やその他の軍艦とともに出港します。フィリピン方面で行われる捷一号作戦に参加するためでした。これはフィリピンのレイテ島上陸のために集結しているアメリカの輸送船団を撃滅するための作戦で、日本艦隊は4方向からレイテ湾に向かいましたが、千歳が属する小沢艦隊は敵の有力な空母機動部隊を引きつけて、他の艦隊から注意を逸らすのが目的の「おとり」の艦隊でした。ルソン島北東沖を南下する小沢艦隊は24日にアメリカの飛行機に発見され、直ちに大編隊による波状攻撃を受けます。山浦さんが勤務していた水測室は6畳ほどの広さに15人程がいましたが、艦底にあるため外の戦闘の様子はよく分かりませんでした。しかし艦に魚雷が命中した衝撃を二度ほど感じた後、艦が次第に傾いていきました。艦橋からも全然命令が来なくなったため、上に確認に行くと総員退避命令が出ていました。そのためみな甲板まで上って海に飛び込みました。暫くたつと千歳は船尾を上にして沈んでいきました。漂ってきた味噌樽にしがみついていた山浦さんは軽巡洋艦「五十鈴」に救助されますが、その後も敵機の攻撃を受け、死体の片づけや機銃の弾玉込めを手伝いました。
 再び本土に戻った山浦さんは、佐世保で人間魚雷「回天」の母艦に改装中だった軽巡洋艦「北上」の勤務を命じられます。同艦は艦の左右に並んだ魚雷発射管を撤去し、そこに8隻の回天を積む計画でした。改装が完了した北上は呉に入港し、山浦さんも回天の訓練に立ち会いますが、回天の搭乗員達は鬚も伸び放題、風呂もいつ入ったか分からないような風体、上官からの命令も上の空のような感じで、勇ましい印象はなかったそうです。そのうちアメリカ軍が上陸して激戦中の沖縄に戦艦「大和」を中心とする艦隊が出撃する事となり、北上にも出撃命令が来ましたが、艦長は乗組員の訓練未了を理由に断ったそうです。北上の隣には大和が係留されていましたが、山浦さんがある朝気が付くと、大和はいなくなっていたそうです。昭和20年7月に呉が空襲を受けた時は、北上にも重大な被害が出ますが、山浦さんは負傷を免れ、終戦を迎える事ができました。