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 生月学講座 No.067「ザビエル神父の平戸来訪」

 山田カトリック教会が百年を迎えるという事で、記念冊子の刊行事業も始まりました。また、島内のかくれキリシタン信仰の方でも、存続に向けての努力が続けられる一方で、諸般の事情で行事の継続が困難になり、組を解散する所も出てきています。こうした現状も、元をただせば今から四五〇年以上前に始まったキリシタンの物語の壮大な過程とみなす事も出来るのではないでしょうか。今回から、飛び飛びにですが、こうしたキリシタンの歴史を概観して見たいと思います。
時は一五三四年、場所はフランスのパリで、神学を学んだイグナチウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエルをはじめとする同志七人が誓願を立てます。彼らがもととなり、一五四〇年に、世界中のあらゆる所に出向き、多くの人々にカトリックの教えを伝える事を使命とする修道会・イエズス会が設立されます。
 時は大航海時代、マゼランは既に世界一周を成し遂げ、地球が丸いという事も実証されていました。スペインは東に向かってアメリカ大陸に到達し、太平洋を渡ってフィリピンに進出していました。一方ポルトガルは当時貴重だった香辛料を求めて西に向かい、アフリカ大陸を回って一四九八年にインドに到達し、さらに一五一一年にはインド世界とアジア世界の接点だったマレー半島のマラッカを攻略し、一五一七年には中国に達していました。スペインもポルトガルも熱心なカトリックの国でしたが、イエズス会は、両国の船が到達した地域にカトリックの教えを広める活動を行うことにします。その活動に身を投じるべく、創立者の一人であるザビエルも、東洋に向かって旅立ちます。ザビエルがマラッカに着いた時、ヤジロウという日本人に出会い、日本のことを詳しく聞いたザビエルは、日本を布教の地に選び、一五四九年(天文一八年)にトルレス神父、フェルナンデス修道士らとともに中国人のジャンク船に乗って鹿児島にやってきて、そこに一年ほど滞在します。こうしているうちに、翌一五五〇年(天文一九年)平戸にポルトガル船が入港した事を聞き、彼らは平戸を訪れます。当地に二〇日間程滞在した後、ザビエルはトルレスを平戸に残し、フェルナンデスを伴って京都を目指す布教の旅に出ました。そして四カ月を経て彼らが平戸に帰った時に、平戸では多くの人々がキリシタンになっていました。その中には生月の人も含まれていたとする説もあります。
ザビエルはその後日本を離れてインドに戻った後、一五五二年にはガーゴ神父、アルカソヴァ修道士、シルヴァ修道士とともに定航船に乗ってマラッカまで渡り、ここで日本に向かうガーゴ達と別れて中国に向かいました。そして同年、広東の近くの上川島という所で熱病にかかり、志なかばで亡くなります。
ザビエルはロヨラとともに、イエズス会の創立者という事で、生月島のキリシタンにも尊敬されていたようです。例えば、元触や山田の日草にあるかくれキリシタンの垣内(組)の御神体として、聖母子の下にロヨラとザビエルが描かれたお掛け絵が祀られています。また山田の正和地区の垣内が祀っていた小型のメダイ(メダル)には、XAVERIUS(ザビエル)の文字とともに彼の姿を刻んだものがあります。