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 生月学講座 No.061「御前様の祀り方」

 島の館では今月16日から、企画展「かくれキリシタン研究の先駆者 田北耕也の業績」を開催する予定です。田北耕也氏(1914~94)は昭和6年(1931)から生月島でかくれキリシタン信仰の実地調査を始め、同信仰の学術的価値を広く知らしめた研究者です。氏の足跡は以前町報でも取り上げていて、企画展でも紹介する予定ですが、今回は氏が撮影した写真に基づいて、御前様の祀り方の古形について考えてみたいと思います。
現在、信仰の組である垣内、津元で祀る御神体である御前様は、①納戸や座敷の戸棚に臨時の祭壇を作って祀る(山田)、②納戸や座敷に木祠を置いて祀る(元触)、③座敷や専用の部屋に常設の祭壇を設けて祀る(壱部)、④別に建てた御堂で祀る(堺目・元触)などの形態が取られています。この4パターンは大体新旧の順になっていて、特に③や④の常設祭壇や御堂は、もはや信仰や御前様の存在を世間に隠さなくて良いという意識のもとで作られています。また②の専用の木祠についても、より控えめですがやはり隠さないで良いという意識の上に立っており、①や②でも座敷に祀るという例は、他人が出入りしやすい部屋である事から、隠すという意識は少ないと言えます。ただ常設祭壇や御堂の場合でも、行事の時に限って、祭壇の扉を開いたり、お飾りするというスタイルは取られていて、御前様をむやみに人目にさらすものではないという意識は今でも強いようです。
 ①でも古いと思われるパターンは、納戸の外壁側にある戸棚を空けて御前様などを納めた木箱を置き、年に数度の主要なお祝いの時だけ、木箱の上に木の棒を組み合わせて枠を作り、そこに幕を張って臨時の祭壇を作り祀る形です。背面の幕に御前様のお掛け絵を吊り下げ、箱の上にはお水瓶やお道具(オテンペンシャ)、オヒカリを置きます。
田北氏が撮影した昭和初期の写真の中には、納戸に祀られた祭壇が写っているものが何枚もあり、中には祭壇の背後に、座敷と納戸を仕切る土壁や障子が写っているものがあります。これによると祭壇は、近年のように部屋の外壁側ではなく内側に祀られていた事になります。実際、現在は御堂や常設祭壇になっている堺目や壱部などでも話を伺うと、昔はそのような祀り方をしていたそうです。このように内側に祀る理由としては、昔の生月の農家は背後の斜面を掘って積んだ石垣を外壁にしていたため、外壁側は湿気に脅かされる危険が高かったのに比べ、家の内側の方が神様を祀るに相応しい清潔さが保たれたからではないかと考えています。なお堺目の幸四郎様のお掛け絵をお守りしている家では、祭壇を納戸の内部側に祀っていて、古い祀り方を伝承している事が分かります。
 田北氏の写真には壺や瓶が写っているものがあります。伝承では禁教時代に御前様を埋めて隠した時に使った入れ物だという事です。また西海岸の洞窟に隠して祀っていたという話もあり、禁教が厳しかった時にはやむを得ず戸外に隠した事もあったようです。しかし時代が下り詮議が緩くなってきた頃に、納戸に納めた木箱に隠し、主な祭りの時だけ祭壇を作る形態になったと思われます。
                              (2004年10月)