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 生月学講座 No.058「平戸銃」

 平戸瀬戸では、明治15年(1882)から昭和22年(1947)頃まで、捕鯨銃を用いた銃殺捕鯨が行われていました。この操業には、江戸時代から捕鯨の伝統がある生月島からも多くの人が参加しており、また島内でも、短期間、銃殺捕鯨が行われた事があります。
 銃殺捕鯨では、手で持って撃つ捕鯨銃で爆発する「火矢」と呼ばれる細長い弾丸を鯨に撃ち込み、それを体内で爆発させて仕留めます。火矢は、内部に火薬を詰める必要から、どうしても弾丸の直径も大きくため、捕鯨銃も、普通の小銃と似た形はしていますが、口径が大きいのが特徴です。銃殺捕鯨は明治時代を中心に、平戸瀬戸以外にも西海各地の捕鯨漁場で使われましたが、それらの地域で捕鯨銃は「平戸銃」と呼ばれていました。これは、捕鯨銃がその射手も含め、平戸から借り出されていた事に由来するようです。
 銃殺捕鯨はアメリカで発明された漁法ですが、日本でも当初、アメリカ製の捕鯨銃が用いられました。もと平戸藩士の橘成彦が明治15年に生月島や川内浦沖で行った実験操業の申請書には、ピアス・アンド・エッガーズ式捕鯨銃の図面が掲載されています。この銃は口径24㍉で、火矢を発射する火薬は銃身の後ろから込め、火矢は銃口から装填しました。しかしこの銃はこの地方には現存していません。もう一種類、ポスカン銃と呼ばれる特殊な銃も使われました。洋式の鯨銛の銛先に沿って短銃が取り付けられており、銛を手で投げつけて鯨に命中すると、短銃から火矢が射ち込まれるようになっていました。しかし投げる距離まで鯨に近づく事が難しいためか、あまり用いられなかったようです。
 今日、生月島や平戸に残っている捕鯨銃の多くは、口径28㍉で全て鉄で出来ており銃床の中央が空いた形をしており、発射する火薬も火矢も銃口から込めるタイプです。この銃の形は、アメリカのブランド式捕鯨銃(口径28㍉)と概ね一致していますが、オリジナルのブランド式とは異なる部分もいくつかあり、また平戸の鍛冶職人などの名前が刻まれた銃も何挺かあるため、ブランド式捕鯨銃を地元でコピーして製作したと考えられます。また明治30年(1887)に開催された水産博覧会の報告には、明治25~6年頃に、舶来品の銃の欠点を改良し、銃筒の厚みを銃口に向かって次第に薄くする等の改良で約1㌔ほど軽くしたとあります。この改良の特徴は、現在、平戸城資料館に収蔵されている銃と酷似しており、その銃には国友卯十郎の銘が刻まれています。彼はもともと平戸城下で火縄銃の製作に従事していた鉄砲鍛冶と考えられ、その技術を活かして捕鯨銃の製作や改良にあたったのでしょう。なおブランド式の、口径24㍉で木製銃床を持つタイプと同形の銃も、生月島内で1挺だけ確認されています。
捕鯨銃は、国内ではほぼ平戸周辺地域だけで所在が確認されている貴重な資料で、今後さらに島内で発見される可能性もあります。ただし個人が無断で所持する事は、銃砲刀剣類所持等取締法で禁止されており犯罪となります。倉庫の整理などで見つかったら、必ず警察所に発見届を提出し、そのまま個人で所持される場合、県の学芸文化課が年に3回程度開催している銃砲刀剣登録審査会に参加して、登録証の交付を必ず受けて下さい。