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 生月学講座 No.055「二度と還らなかった船団」

 第二次世界大戦中、生月島にも砲台や敵の潜水艦を探知する施設が置かれていたことを以前紹介しました。しかしこれらの兵器や施設は、生月島を守るためではなく、対馬海峡を通る敵艦を攻撃したり探知する目的で設置されていました。特に第一次世界大戦以降、登場した潜水艦は、魚雷でたくさんの船を沈めるようになります。第二次大戦が始まると、生月島付近の海域は、対馬海峡や佐世保軍港の防衛とともに、伊万里湾に集結する輸送船団の航路としても重要な場所となりましたが、潜水艦は、潜ったまま海峡を抜ける事ができるため、従来の砲台は役に立たず、攻撃のためには潜水艦を探知する必要があって、長瀬鼻に潜水艦の探知装置が設置されたのです。
 当時の日本は、開戦当初に占領した南方(東南アジア)の石油をはじめとする豊富な資源に大きく依存しており、また占領地に兵員や兵器を送りこむ必要もありましたが、長大な航路をアメリカの潜水艦に脅かされていました。堺目の川村喜八郎さんは、昭和19年(1944)10月に招集され、大村の連隊に入営した後、門司から輸送船に乗り込んでいます。川村さんが乗船した船を含めた船団は、台湾の高雄港まで僅か3日で到着しますが、中国南部の海南島沖を航行していた時に潜水艦や航空機の攻撃を受け、それらを避けるために航路を反転させたりしたために時間を食い、結局、昭南島(シンガポール)に到着するまでに1カ月もかかったそうです。
昭和19年11月14日、伊万里湾に集結した「ヒ81」船団は錨を上げて出発します。船団のうち5隻の輸送船は朝鮮の釜山などで、満州から移動してきた第23師団の兵員と兵器などを積み込んでいました。行く先は激戦が続くフィリピンです。それに、シンガポールで石油製品を積み込む予定の油槽船(タンカー)5隻を加えた総数10隻が、軽空母「神鷹」を含む9隻の護衛艦に守られていました。
船団は、生月島の北方を抜け西に向かいます。ところが護衛艦の電探(ソナー)が潜水艦を探知したため、船団は一旦、宇久島の南側に待避します。翌15日朝、船団は出発しますが、福江島の北西約40キロの地点でアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受け、あきつ丸(輸送船、9000トン)が沈没します。さらに済州島通過後の17日夕方には摩耶山丸(同)が、23時過ぎには空母「神鷹」(17500トン)が撃沈されます。3隻に乗っていた兵士や船員5,500名が犠牲となりました。護衛艦は水中に爆雷を投下して反撃しますが、効果はありませんでした。残る3隻の輸送船は何とか無事にフィリピンのルソン島にたどり着きましたが、多くの兵員や兵器を失った第23師団は、戦力が大きく低下することとなりました。
一方、油槽船のうち故障した1隻を除く4隻は、無事シンガポールに到着します。ブクム島でガソリンや重油を積み込んだ後、船団の3隻と他に2隻の油槽船を加えて「ヒ82」船団を編成し、12月12日に4隻の護衛艦に守られて日本への帰還の途につきます。しかしベトナムの沿岸を北上していた時に潜水艦に攻撃され、3隻(うち2隻が伊万里湾発の船)が爆発炎上後沈没し、乗組員の多くが船と運命を共にしました。