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 生月学講座 No.046「生月積石工の活躍」

 生月島の積石工の活動が記録で確認できる最も古い例は、佐世保郷土研究所の『郷土研究』七号に松尾滋氏が紹介した、寛政七年(一七九五)に早岐の大手原に塩田を作る際の、六〇〇間(一〇八〇㍍)もの堤防の築造を、生月の忠助という者が請け負ったという佐々町吉永文書に残る記録があります。
 『鹿町町郷土誌』によると、江迎湾の南側を干拓して造られた深江新田は、文化三年(一八〇六)から同六年にかけて工事が行われましたが、その工事の際には、石山頓平が石工として参加し、特に難しい潮止め工事(最後に堤防を締め切る)を苦労して成し遂げたといい、今日もその名前が語り継がれているそうです。深江新田は、堤防の長さ一八〇〇間(三二四〇㍍)、新規耕地五〇町(約五〇㌶)という大規模な工事だったので、工事の苦労もひとしおだったと思われます。俗にトンペイの投げ突きと言われる、石垣の隙間に上手く石を投げ入れて完成させたという伝説も、それを反映しての事かも知れません。またこの工事の際に記された『深江潟新田地御築立覚帖』という文書には、「永坂白岩潟新田、頓平つきあげ、文化九壬申五月廿三日潮富」という記述があるそうで、石山頓平が江迎側の干拓工事にも従事したことが分かります。
 前記二例は、生月と同じ平戸藩内の事業ですが、生月から一〇〇㌔以上離れた山口県下関市の響灘に面した安岡港の堤防脇に立つ龍神碑には、同地の庄屋仁右衛門らとともに、「生月石工甚蔵」の名が刻まれています。この堤防の工事は文政六年(一八二三)とされているようですが、藩毎に独立していた江戸時代に、他藩である長州藩内の工事まで行っていたという事は、やはり技術を高く評価されていたからだと考えられます。
 時代は下り、大正七年(一九一八)刊行の『生月村郷土誌』に、次のような記述があります。「本島民は、自己の所有を耕耘するのみにては、諸税其の地の費用を支出し、進んでは貯蓄をなす等の余裕少なければ、他地方に出稼の男女頗る多し。就中農家の副業として石工を営み、自然石の取扱いは其の得意とするところにして、諸所の築港工事、波止の築造に出稼をなして、一年中約半箇年は不在がちの有様なれば、留守居の婦人が田畑の耕耘等まで引受くるもの少なからず。本島農業の比較的不振なる一面之に起因するにあらざるか」。これを読むと、大正時代にも積石工の出稼ぎが盛んで、一年の半分はよそに出て働く程だった事や、そのため農業自体の振興はあまり熱心ではなかった側面もあった事が分かります。また先般、博物館に見学に見えられた佐賀県肥前町の年輩の方は、昭和初期頃には肥前町の波戸の築造も生月の積石工が手がけていて、特に婦人が組になってモッコで石をいない、「ダッキ、ダッキ」と威勢よくかけ声を掛けながら運んでいた様子を覚えておられ、当地には「生月ダッキ」という言葉も残っているそうです。
海岸にある摩耗して不揃いな石を巧みに組み合わせて、大波にもびくともしない堤防を築く高度な技術は、残念ながら今や失われてしまったようです。