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 生月学講座 No.040「山見の話」

 古式捕鯨業時代に行われた沿岸捕鯨で、鯨を探すために行われた方法に「山見」があります。山見は、海に面した見晴らしの良い場所から海上を監視して、鯨を探す作業の事ですが、その仕事を行う人や、監視するための小屋やその所在地も山見といいました。分かりやすい例として、舘浦の北側にある日草鼻の別名として「鯨見鼻」という地名があります。しかしそれ以外の場所にもたくさん置かれており、益冨家が江戸時代後期に制作した『勇魚取絵詞』によると、島内では日草鼻以外に名残(壱部浦の北端)、鞍馬(御崎の鞍馬鼻)、たかり(島の北端)、鯨島、旦那山(御崎の西南側)、いかり山(ゴミ処理場の南側)などにあり、他に海を隔てた的山大島の馬の頭(馬頭鼻)、大賀(大賀鼻)、白崎などや、度島の崎瀬、平戸島北岸の神崎にも山見が置かれていました。
 益冨組がおもに行っていた漁法は、張り回した大きな網に鯨を突っ込ませて、動きを鈍らせておいてから銛を突くやり方でした。この漁法は従来「網取式捕鯨法」などと呼ばれてきましたが、網は、鯨を絡め取る目的ではなく、あくまで銛突のための補助に用いる事を考え、私は最近「網掛突取捕鯨法」という用語を用いています。生月島では、鯨を発見した後、勢子船が鯨の左右や後方に展開し、船べりを叩いて音を立てながら、生月島の東北岸にあった、網を張るのに適した場所(網代)まで誘導してきました。生月島の沿岸は、冬に南下する鯨(下り鯨)も、春に北上する鯨(上り鯨)のどちらもよく通る恵まれた漁場でしたが、特に下り鯨は、平戸島-度島間の田浦瀬戸、度島-的山大島間の袴瀬戸、的山大島北側の三つのルートを経由して、前の海に入ってきました。平戸島や度島、的山大島に置かれた山見群は、いわば早期警戒ラインとして、鯨の接近をいち早く察知して、筵旗を上げたり狼煙を焚いたりして、各所に配置された勢子船や、網代で待機している双海船(網を張る船)などに知らせる役目を担っていたと思われます。
捕鯨図説『勇魚取絵詞』には、山見が、鞍馬の山見小屋から、勢子船の集団が鯨を網代に追い込む様子を遠眼鏡で眺めている図があります。小屋は板壁に板屋根で、海側の正面と側面は窓になっており、正面のひさしは前に長く突き出ていますが、これは窓の上下の幅を狭めるためと思われます。一日中海を監視する山見にとっては、視界は必要な範囲だけに限ったほうが、目の消耗が少なくて済むからです。ところで図には、山見小屋の前で幟旗を手にしている人物が描かれています。この人物についての説明はありませんが、呼子の捕鯨で山見をやっていた人から伺った話では、捕鯨船がやってくると山見が旗を振って鯨の位置を指示していたといいます。高いところから見下ろした方が、鯨の位置がよく分かるからで、この役目が、網代に近い山見の重要な職務だったと考えられます。