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 生月学講座 No.032「生月島巾着網仕事始め」

 現在、生月島の遠洋旋網船団では巾着網(きんちゃくあみ)という網を用いています。この網は、魚群の周りを囲むように網を張り回した後、網底に付いている環に通した綱を引いて網の底を絞り、網を袋状にして魚群を逃げられなくした後、網を引き揚げる大変効率の良い漁法です。網の原型は19世紀後半にアメリカで発明されました。
 以前は日本列島の沿岸各地で、夏から秋にかけて、近海で大量の鰯が発生していました。江戸時代に入ると、煙草や綿などお金になる畑作物を育てる事が盛んになりましたが、こうした作物は肥料を必要とし、鰯をそのまま干した干鰯(ホシカ)は良い肥料になったので、各地で鰯を取るのが盛んになりました。現在の千葉県の九十九里浜のような砂浜海岸では、鰯群の沖に網を降ろし、両端についた引綱を陸上から大勢の人が引っ張って網を揚げる大規模な地引網が盛んに行われました。沖合では、四角の網を真っ直ぐに降ろした後、綱の下を引き上げて、燈火で集めた鰯群をすくい上げる八田網(はちだあみ)が大規模な漁で、他に鰯群を燈火でちりとりのような形の網の中に誘導して取る縫切網(ぬいきりあみ)、鰯群を囲むように比較的小型の(底を絞らない)網を張り回して船上に揚げる船曳網などが行われました。地引網以外の網は、磯海岸が多い肥前方面(長崎・佐賀)でも盛んに行われていて、明治中頃には肥前国は、全国の干鰯の生産量で一番になる程でした。
 九十九里浜がある千葉県では、明治に入っても旧来の地引網や八田網で鰯を取っていましたが、漁獲は次第に低下していました。そうしたなか、海上郡椎名内村の千本松喜助氏は、アメリカの巾着網の特徴などを取り入れた改良揚繰網(あぐりあみ)を明治21年(1888)に完成させます。『千本松四代ノ戸主』によると、網の研究は先代の兵吉氏の頃より始まり、明治9年の父親の没後、息子の喜助氏が受け継いで、13年にわたる研究の末完成させています。なお喜助氏は、完成した網に自分の名前を付ける事を拒み、特許も申請せず、教えを乞う人には出向いて積極的に指導をしたそうです。これについて前掲書には「亡父ノ素志ハ自己一家ノ私利ニアラズ、随テ喜助ニ於テモ之ヲ専有セントノ意ナク」とあり、私利に走らず公の繁栄を志した明治の男の意気を強く感じます。
 改良揚繰網(和船巾着網)は、喜助氏の普及活動もあって国内各地に広まります。長崎県でも明治32年(1899)に県がこの新式網を作り、南高来郡漁業組合に貸与する形で試験操業を行い好成績を上げます。『千本松四代ノ戸主』によると、喜助氏は明治39年(1906)に北松浦郡漁業組合からの依頼で、熟練水夫4名を引率して生月島に渡り、試験操業に着手します。当初の昼張りでは鰯群が敏感で逃げてしまいますが、夜の焚き寄せ漁に変更したところ「其成績至極宜キ」結果を上げ、八田網に代わって用いられるようになりました。但し舘浦の恵比須神社境内にある『峰寛次郎氏之記念碑』によると、喜助氏は明治38年に峰寛次郎氏の招聘で舘浦に来た事になっています。
 先年の春、喜助氏の子孫である千本松稔氏が、先祖の業績を検証する旅で本町にお出でになったので、博物館内や前述の記念碑などを案内しました。巾着網が生月の発展にどれだけ貢献したかご説明すると、感無量のご様子でした。
                               (2005年6月)