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 生月学講座 No.007「生月人とお酒」

 江戸時代、捕鯨が盛んだった頃、益冨家は、各地から来ている鯨組の従業員に振る舞うために、酒造りの許可を平戸藩から貰っていました。昭和初期にも、舘浦の近藤酒店と壱部浦の正宗屋が酒を造っており、早崎ガワや谷地ガワから水を担うて運ぶ蔵男の姿が見られました。昔から捕鯨やまき網など漁業が盛んだったからかも知れませんが、生月の人々の酒量は昔から多く、平戸税務所管内でも酒の税収が人口比でトップだったという話を聞きます。またかくれキリシタンの行事でも、オラショを唱えた後は、酒肴を神様に届けてからいただくのが常で、昔はそれが楽しみでもあったそうです。昔は酒は高級品で、1合単位で量り売りされ、子供達は徳利や燗瓶を持ってよく買いにいかされました。焼酎は酒よりも親しみやすい飲み物でしたが、ビールが無い昔、夏には体を冷やす焼酎がよく飲まれ、盆の訪問客には黒砂糖を入れて煮た煮焼酎が振る舞われました。
戦後の物資が乏しい頃には、自家製でドブロク(濁酒)や焼酎を造る事も流行りました。これは実は法律違反(密造酒)で、見つかると税務署から摘発されるのですが、人々の酒への欲求は強く、蒸した米に麹を入れて発酵させたドブロク(ドブ酒)や、麦や芋、さらに山で採ったマテの実を蒸して、焼酎麹を入れて発酵させたものを蒸留した焼酎を造って嗜んでいました。酒好きは、焼酎が滴り落ちて溜まるのを待ちきれず、滴を直ぐに舐めてしまうため、なかなか溜まらなかったそうです。また出来た焼酎を瓶に入れて納屋や野山に隠していましたが、中にはそれを見つけては飲んでしまう者もいて、飲まれた方も法律違反の酒なので訴えようにも訴えられなかったそうです。
 生月島は、長崎県内では小値賀島と並び、酒造りに従事する職人を多く出してきた土地です。農家の男は、11月の初め、稲刈りが終わると造り酒屋に働きに出て、3月末頃まで酒造りに従事し、帰ってから麦の収穫と苗代仕事をしました。行き先は福岡や佐賀、県内の造り酒屋で、最初、新参の蔵男として入り、徐々に仕事を覚えて認められ、最後には酒造りの責任者である杜氏になりました。
堺目の松山鮎蔵さんは、終戦後、福岡県宇美の萬代酒造に勤めたのを皮切りに、東彼杵の「恵美福」佐賀の「天吹」甘木の「雪の里」早岐の「春凪」福岡の「富の寿」など各地の造り酒屋に勤め、最後に対馬の白嶽酒造で長く杜氏を勤めました。松山さんは佐賀県の酒造試験場で技術研修を受けたこともあり、各地の造り酒屋から請われて酒造りの指導をしていたそうです。松山さんの例のように、戦後、生月島の杜氏や蔵男達は、各地の造り酒屋で優れた技量を発揮し、美味い酒をつくり出していました。そのため生月出身の職人は、他地域の職人よりも高い給料を貰っていたそうです。またその期待に応えるべく、職人達は生月酒造杜氏組合(時期によって名前が異なる)という団体を作り、研修会を開催したり、上部団体である九州連合会が開催する研究会に参加して研鑽を積んでいました。
最盛期には120人もの酒造りの職人がいた生月ですが、雇用条件の問題などもあってか年々減少し、今では僅か数人となってしまい、「生月杜氏」という誇称も過去形になりつつあるのはとても残念な事です。