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 生月学講座 No.147「キリシタン史における生月島・平戸島西岸の価値」

11月1日、国際フォーラム「キリシタンの世紀と世界遺産」を開催し、大勢の方にお越しいただきました。ディスカッションの報告では、リスボン新大学のコスタ教授が、籠手田安経について「日本で初めてキリシタンに入信した武将クラスの人物」として高く評価していました。実はその少し前に、清水紘一先生のご著書『織豊政権とキリシタン』を読んで、1558年に行われた籠手田領の一斉改宗について、「ここに当主、家臣、領民、寺の改替と寺僧の改宗によるキリシタン領主国が、小規模ながら日本で初めて成立したこととなる。」という評価をされている事を再確認し、籠手田領と7年後に一斉改宗が行われた一部領−すなわち今日の生月島と平戸島西岸域−のキリシタン史における重要性に、改めて気付かされていたので、コスタ先生の御指摘はよく納得できました。
ザビエル神父の一行が1549年、最初に日本の地を踏んだのは鹿児島でしたが、同地では少数の入信に止まります。その後ザビエルは、ポルトガル船が日本で最初に入港した平戸に移り、さらに大内氏の本拠地だった山口を経て京都に到り、離日前には大友氏の本拠地・豊後府内(現在の大分市)に立ち寄っています。このようにザビエルが立ち寄った平戸、山口、府内が、初期(1550年代)のキリシタン布教の拠点となり、教会堂などの施設が設けられています。しかし山口では、1551年に陶晴賢が謀反を起こして守護の大内義隆を自害に追い込んだ事で政情が不安定となり、56〜57年に起きた家臣間の抗争とそれに続く毛利元就の侵攻によって、一時期二千人を超える信者を数えた山口のキリシタンの勢力は大きく後退します。
一方、府内では、キリシタンに好意的な大友義鎮(のちの宗麟)のもと、1557年には病院が設立され、59年には病院の運営・管理を行うための「慈悲の組」が設立されています。府内は、のちに日本全体を統括する司教座を置くことが想定される程、イエズス会に重視されていました。ところがフォーラム前日の10月31日に大分県立歴史博物館で開催された企画展「キリスト教王国を夢見た大友宗麟」記念シンポで講演を行った五野井隆史先生によると、府内では町衆が古くから維持してきた強固な宗教秩序があったためか、信者は300〜400人という少数に留まっていたそうです。イエズス会が府内を重視した理由は、信者の数ではなく大友義鎮の権力の後ろ盾だったのです。
このように周囲の状況も併せて見ると、1550年代を通して信者数が少しずつ増えた平戸や、1558年の一斉改宗によって一挙に1300人もの信者ができ、しかも領内はキリシタン信仰一色となった籠手田領は、初期のキリシタン信仰において大変重要な場所であった事が改めて分かります。その事は1550〜60年代の宣教師書簡で、平戸地方の信仰内容が詳細に報告されている事にも反映されていると考えますが、そこに記された信仰要素と、こんにちかくれキリシタン信仰が保持している要素に多くの一致点が見られる点も、生月島、平戸島西岸地域のキリシタン史における重要性を高めています。このように、布教初期のキリシタン信仰の様相を反映した地域である生月島・平戸島西岸の価値が、現状の世界遺産の全体ストーリーに充分に反映されていない事は、残念な事です。 2015.10