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 生月学講座 No.144「「カッツ」考」

生月島でかくれキリシタン信者が過去、人口の殆どを占めていた事については、生月島のかくれ信仰を最初に調査した田北耕也氏が『昭和時代の潜伏キリシタン』(1954)に、「生月島は現在人口約一万一千、その九割弱が旧キリシタンである。」と記した事が根拠になっています。その記述の通りだとするとかくれ信者は9,900人となり、残り1,100人のうち400人程をカトリック信者が占めたので、残りの700人程は、かくれ信仰にもカトリックにも関わらない仏教や神道に帰依する人々という事になります。
 そのうちかなりの人々は、元々かくれ信仰に関わっていたのが信仰を止めて仏教・神道のみになったのではなく、以前からかくれ信仰と関係がない家と認識されていて、かくれ信者の方はその人達を「カッツ」とか「エレンジャ」と呼んできました。以前は、かくれの行事の際に信者以外の者が居る場合には、始める前に「エレンジャ祓い」と言い、六巻のオラショを唱えて、御前様などに非信者が関わる許しを乞いました。エレンジャの語源について古野清人氏は「生月のキリシタン部落」の中で、ポルトガル語で「異端者」をあらわすheresiaが由来になっているのだと説明しています。
 「カッツ」についても、いくつかの説が唱えられてきましたが、その一つに、中世の生月島にいた豪族・加藤氏の名に由来するというものがあります。加藤氏がキリシタン時代、キリシタン信仰に反対していた事については宣教師報告にも記述があり、片岡弥吉氏は『かくれキリシタン』の中で、「近年まで、かくれキリシタンでない人たちを生月でカッツとも呼ぶことがあったのは加藤左衛門に由来する加藤派ともいうほどの意味で、反キリシタンないし非キリシタンの人というニュアンスを持つものであった。」と言っています。しかし加藤氏は、平戸松浦氏の家臣として平戸領内に存在していた事は分かっていますが、籠手田氏・一部氏が統治していたキリシタン時代やその後の禁教時代に、生月島内にいたかはっきりしておらず、決め手に欠けます。
 一方、生月島内の臨済宗・永光寺の住職が葬式を行う際、「喝」と大声で唱えますが、この言葉が語源だという説もあります。確かに仏教はキリシタン禁教の脈絡で再導入されており、静粛な葬儀の場での「喝」も印象に残りますが、永光寺の檀家には非かくれ信者のみならず多くのかくれ信者がいて、彼らが二重に行う葬式のうち仏式の方でも「喝」は言われるので、非かくれ信者のみを指す呼称としたとするには若干根拠が薄弱です。
 古野氏は「生月のキリシタン部落」の本文中で、「このカッツまたはカツーの語源は明らかでないが、徳川幕府がキリシタンを監視するために派遣した徒(かち)ざむらいの仲間であることには疑いがあるまい。彼らは禅宗に属し、したがって仏式に精進して魚を食べない点でも、キリシタンと相反した風習を守っている。」と記しています。生月島には禁教当時、キリシタンを監視する「押役」や、異国船を見張る「遠見番」など、馬には乗れない身分の徒士侍が平戸藩から派遣されていましたが、当然、彼らはかくれ信仰には関わっていませんでした。そのためかくれ信者側が、下級武士を呼ぶ少し軽んじた言い方である「徒士」で非信者を呼んだという事は、大いに考えられると思います。 (2015.7)