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 生月学講座 No.115「益冨家の座敷」

 壱部浦に所在する益冨家居宅は、日本最大規模の鯨組「益冨組」の本拠地としての施設群を残す文化財的価値によって、平成20年に県の史跡に指定され、建物の保存に必要な修繕が進められてきました。平成23・24年度には傷みが激しかった座敷建物の全面改修がおこなわれました。座敷建物は益冨家を訪れた貴賓を接待するための施設で、益冨家には御成門が存在する事から、平戸藩主クラスの来訪を想定した建物であることが分かります。現在の座敷建物は片切妻片寄棟屋根の平屋建てで、内部は座敷(8畳)、御次(8畳)の2部屋からなり、北、西、南の三側面に縁が巡らされていますが、改修に伴っておこなわれた調査で、以前の建物はかなり様相が異なっていたことが分かってきました。

 まず土台となる寝せた柱状の石の配置や柱に残る痕跡から、もとの内部は座敷(8畳)、次(6畳)、三ノ間(8畳)の三間から成っていたことが分かりました。つまり後世に三ノ間が解体されて次の間が若干広げられるとともに、南側の縁が新設されています。縁も、もとは座敷の北と西側に限って存在しましたが、座敷の庭に面した西側の縁は、御成門を通った平戸藩主が、庭を通過して靴脱ぎ石を上って座敷に入るために必要でした。一方、家臣達や来参者は三ノ間に詰めていたと思われますが、藩主とは別のルートで建物に入った事が想定されていました。三ノ間の道路に面した側(東側)には後世、便所が設けられていましたが、工事の際にそこの壁から漆喰の痕跡が見つかりました。漆喰はもともと人の行き来がある場所の壁に施されていたので、かつてはここに玄関が設けられ、家臣達や来参者がそこから三ノ間に上がったと考えられるのです。

 天明8年(1788)師走に生月島を訪れた江戸の絵師・司馬江漢は、益冨家を訪問し座敷に通された時の様子を、『西遊日記』に次のように記しています。「(益冨又左衛門の)伜亦之助出て、玄関様の処を開き、坐しきへ通シ上坐ニ(江漢を)置き、しきへの外ニて挨拶す。先ツ酒吸物を出して飯を出す」。この記述から江漢は、玄関から三ノ間に上がり、次の間を経て座敷に通され、次の間に座った又之助から挨拶を受けたと想定され、調査で分かった建物内部のあり方と矛盾しません。

益冨家の座敷建物が三間で構成される事は、福岡藩内の同様の接遇空間を持つ屋敷の図面を検証した結果とも一致します。なおこれらの図面を見ると、貴賓が居る居間に近接して貴賓専用の厠(便所)が設けられています。現存する益冨家座敷にはそうした厠はありませんが、座敷の北東の縁には石製の手水鉢が残り、付近の庭には南天が植えられている事から、その辺りにかつて貴賓用の厠(便所)が設けられ、北側の縁は厠に行く通路として使用されていた事が分かります。

益冨家の『先祖書』によると、元文5年(1740)旧暦3月17日に平戸藩主の生月来島と捕鯨の鑑賞が行われている事から、御成門と座敷はその際の接遇施設として建設された可能性が高いと考えられます。但し、座敷の建物の材木には、現在の組み方と異なるほぞ穴などが残るものもあるため、もともと別の所にあった建物を移築した可能性があります。