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 生月学講座 No.098「ハザシの名称とその起源」

 ハザシは、古式捕鯨業の突取法、網掛突取法、(平戸式)銃殺法などの漁法で置かれた役職で、各船を指揮し、鯨に対して銛や剣を打つのが職務ですが、最も重要な任務として、弱った鯨に泳ぎ着き、庖丁で鼻などに穴をあけ、綱を通して鯨体を確保する「手形切り」「鼻切り」という作業を行います。語源について紀州(和歌山)では、捕鯨は秦の徐福が熊野に到達した際に伝えたという伝説があり、「秦士(ハタシ)」という言葉から始まったものという説がありますが、福本和夫は、『史記』始皇本記の中にある、東海で徐福が弩弓で大鮫を射たという記事から着想を得たのではないかとしています。

 ハザシを記す漢字は「羽指」「羽差」「波座士」「刃刺」など、尤もらしい解釈の字を充てていますが、いずれも職名の起源には結び付き難いように思えます。『綜合日本民俗語彙』には、九州で八田網の指揮者の事を「ベンザシ」と呼ぶとあり、唐津市名護屋でも、巾着船の指揮をとる者のことを「ベニサシ」と呼んでいます。慶長3年(1598)刊の『日葡辞書』にも、ベンザシは漁夫の頭を意味すると書かれています。この語源は恐らく、荘園公領などに配置され、米などの徴収にあたる役職「弁済使」から来ていると思われますが、仮に、漁の全体を司るのがベンザシとすると、各船で末端(端)の指揮を司る役職を「端済使(ハザシ)」と呼んだのではないかと考えます。但し鯨組では「弁済使」という職名を確認していないので、早急に結論は出せません。

紀州太地浦の鯨組で、年越に際して鯨組から従業員に贈られたお金を調べると、勢子一番・二番船の刃刺(ハザシ)が7貫500文、勢子三番・網一番船の刃刺が6貫746文、勢子船並刃刺6貫、網二番船刃刺5貫248文、網二~八番船・持双船刃差4貫500文となっていて、危険が多い勢子船の刃差が優遇され、特に全体指揮にあたる一番・二番船の刃刺の給料が良いことが分かります。但し太地では、羽差を出す家は決まっていました。

 土佐の浮津組では、鯨組に入るとまず「炊ぎ」になり、その後「八挺」(勢子船の櫓押し)、次に網船の中網繰をつとめ、そこで「望み状」と呼ばれる志願書を提出して、羽差の手伝い役である持双船の友櫓押しとなります。その後面梶・取梶櫓押しを経て持双船の羽差となり、それを勤めあげると勢子船の加勢にいきます。加勢が充分勤まると突羽差となりますが、勤まらなければ網方羽差や、魚切下役(陸上勤務)にまわるそうです。

 西海漁場は、最初は紀州系の突組の進出によって捕鯨が始まりますが、その後に結成された平戸など地元の突組でも、紀州出身のハザシが雇われています。和歌山県那智勝浦町に残る「指上ケ申五嶋行鯨突羽指共之口書」という文書には、寛永14年(1637)から万治3年(1660)にかけて、三輪崎浦や宇久井浦から五島・五島灘に向かったハザシなどの名前と雇われた組、漁場が記されています。興味深いのは、寛永14年に平島の庄二郎組の羽指として雇われた重左右衛門は、その本来の出自が「伊勢の貝取」(海士・潜水漁民)だと記されている事です。益冨組をはじめ、のちの西海の網組では、ハザシを西海の海士集落の出身者から雇うのが一般的で、おそらくは、鯨に泳ぎ渡って鼻切や腹の下に綱を回す作業を行う必要からだと考えられますが、そうした傾向は、古式捕鯨業の早い段階の紀州で、既に確認できる事が分かります。