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 生月学講座 No.094「カミロ神父の生涯」

 元和8年(1622)に起きた中江ノ島における生月島などのキリシタン信者の処刑(殉教)は、イエズス会のカミロ・コンスタンツォ(コスタンツォ)神父が行った伝道活動に協力した事が直接的な原因で起きました。今回はこのカミロ神父の生涯を、ダニエロ・バルトリの『日本イエズス会史』の記述から辿ってみようと思います。

カミロ神父は1571年9月8日、イタリア半島南端カラブリア州で地方の名門の家に生まれました。若い頃は信仰と文学を修め、さらに民法を学ぶためナポリに赴き、遊興に陥る事もなく勉学に励みます。同郷の悪友達は彼の部屋に美貌の遊女を訪問させ、彼を誘惑させますが、彼は毅然として遊女を退けたそうです。

彼は20歳の時イエズス会に入り、30歳の時に中国に派遣されます。しかし自国領に外国人が入るのを良しとしないポルトガル人の妨害に遭い、日本に向かう事を余儀なくされます。乗っていた船が台風に遭遇すると信者の告解を聞き、皆で聖歌を歌い祈祷を唱和しながら乗り越え、1605年8月17日(慶長10年7月3日)長崎に上陸します。そして豊後、堺を回りながら布教を行いますが、1614年(慶長19)徳川幕府の禁教令によって他の宣教師とともにマカオに追放されます。その後5年間、彼は自らの布教に役立てるべく仏教の研究に没頭し、さらに中国の老子や孔子の思想も研究し、その成果を15巻の本に纏めています。

 1621年(元和7)、神父は軍服に帯剣の出で立ちとなり、コーチシナ(ベトナム)から帰国する途中でマカオに立ち寄った日本の朱印船に、同僚のアントニオ・デ・ソーサ神父とともに乗り込んで長崎への密航を企てます。キリシタンの船長は最初、後難を恐れて二人の下船を許さず長崎奉行に引き渡そうとしますが、同乗していた堺のキリシタンが長崎のキリシタン達に報せ、彼らが船長を説得した結果、漸く有馬への上陸を果たします。

カミロ神父は有馬で日本の状況の説明を受け、和服に変装して武雄の不動山や唐津の信者の元を巡ります。平戸のキリシタンも彼の到来を切望したため、そこに向かう事になりますが、平戸については「是等の島々は総べて日本に在りし最も古き熱心なるキリスト教界にして、我等の最初の朋輩等に依りて基礎を置かれしものなりき」と紹介されています。 平戸では一艘の小船と船頭を伴い各所を回りますが、そのうち平山常陳の朱印船に乗ってきて逮捕され平戸に監禁されていたドメニコ会のフロレス神父の奪還未遂事件が起き、首謀者であるコリャード神父の捜索が行われます。カミロ神父は厳しい警戒を避けるため舘ノ浜(舘浦)に移動し、ジョアン阪本源左衛門の家を宿として3ケ月の間、島内で伝道活動を続けます。その後、伝道師のガスパル籠手田、看坊のアゴスティーノ太田を伴い、多くの信者がいる五島の納島への伝道に出かけますが、その時一人の熱心な婦人信者が、自分の夫で生月島の法廷の司直だった南総右衛門を改宗させようとして、神父や布教を手伝っている者達の事を夫に話してしまいます。総右衛門はその事を平戸に伝え、探索のため派遣された3艘の船に井上右馬允と共に乗船して五島に向かいます。そして1622年4月24日(元和8年3月14日)五島藩領の宇久島にいたカミロ神父一行を捕捉し、五島藩の官吏からの引き渡しを受けて、平戸に連行しています。