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 生月学講座 No.084「テントブネ」

 今年(平成22年)の7月19日、舘浦港で競漕船(セリブネ)大会が開催されます。舘浦港では、大会に出場する各チームの練習が始まっていて、テントブネという全長6尋(12㍍程)前後の木造和船に4丁の櫓を付けての力走が見られます。

 生月島では、テントブネはアゴ(飛魚)船曳網や、シイラ船曳網、カシ網(磯建網)、海士漁、巾着網の積船などの他、農家の海藻取りや運搬にも用いた一般的な小型和船でした。普通3~4丁の櫓を用いて進みますが、網を張り回すための速力が必要なシイラ網の場合は5丁櫓でした。遠距離の場合などは帆走で行く事も可能ですが、中央の本帆と前方の弥帆を巧みに用い、風上に向かってジグザグに進むマギリ走りも出来ました。

桜田勝徳氏の「船名集」によると、テントブネもしくはテントウの名称は、近世から近代にかけて広く沿岸に普及した和船名でした。江戸時代の『和漢三才図会』『和漢船用集』で「天道」「伝道」と記された船は、漁船というより運搬船と思われる記述をしており、実際、淀川や青森では二百石とか百石積みの運搬船の名称でした。ただ一般的には漁船に属するタイプの名称として用いた事例が多く、三重県須賀利では幅5尺以下の小漁船を指し、伊豆西岸では幅6尺前後の鰹・鰆釣りに用いる大型漁船を指しています。

 玄界灘沿岸でもテントウの名称を持つ和船は古くから用いられ、福岡県糸島郡姫島のテントウは長さ5尋・肩幅3尺のやや小さめの船ですが、同郡野北浦のアグリ網に使用するテントウは肩幅6尺以上に達しました。私が調べた中でも、佐賀県東松浦半島では江戸時代の唐津藩資料「唐津領総寄高」に、各村の所有船として「穀船」「網船」「天當(テントウ)」「天満」等の名が見え、例えば小川島(呼子町)の項には天當32艘、穀船1艘所有とあり、テントウが一般的な船である事が分かりますが、同島での聞き取りによると主として一本釣の餌になるカナギを取る網漁に用いたそうです。また東松浦郡玄海町仮屋のテントブネは全長6尋程、そそり立つミヨシ(船首材)やスイタ(可動式の板)の甲板が特徴で、シロアミ(鰯船引網)や曳網漁に用いたそうです。なお仮屋における大正~昭和初期頃の和船型漁船の類別は、大きい順に巾着網船(9尋程度)、テントブネ(6尋)、ゴチ網船(5尋前後)、マゲ網船(5尋)、ツリフネ(5尋)、チョキ(4尋)、テンマ(3尋)などがあり、テントブネは中型の船である事が分かります。

長崎県北松浦地方では、テントブネは平戸市の各漁村で巾着網の積船や磯建網の網船に用いられましたが、田助では旧暦5月5日に行われていたセリフネ(船競争)にテントブネを用いました。このように玄界灘沿岸では網船として利用された事例が中心ですが、一本釣漁が盛んな壱岐勝本浦のテントウは、1~2挺の櫓漕ぎで用いる釣船で、その船で朝鮮沿岸まで出漁していたそうで、勝本の船競争に使用する御幸船(4丁櫓)は、テントウを基本に若干幅を細くしたものだそうです。

テントブネ・テントウの名称の起源については、テントウ(天当)ミヨシという天に突き出たミヨシの形状に由来するという説があります。