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切支丹の歴史

平戸地方のキリスト教歴史

◆ザビエルの来日と平戸◆

 キリスト教が日本に伝えられるのは1549年8月に鹿児島出身の日本人アンジローに伴われて、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのが最初とされています。ザビエルは早速鹿児島で布教活動を行ないますが、仏教徒の反感にあい成果があがりませんでした。
翌1550年9月にポルトガル船が平戸に入港したのを聞いたザビエルは鹿児島布教をあきらめトーレス、フェルナンデス、日本人ベルナルドらを伴って平戸に来ました。この時ポルトガル人たちは、祝砲を撃ち満艦飾を施し、ラッパを吹いて祝賀の意を尽くしています。

 ザビエルは時の領主松浦隆信(道可)に謁見し、即座に布教の許可を得て平戸での布教を行っています。平戸では20日の間に鹿児島での一年に相当する以上の信者を得たといいます。ザビエルは都で布教するため、トーレスに平戸を任せて、フェルナンデス、ベルナルドらを伴って10月下旬都へと旅立ちます。
 途中、山口で領主大内義隆に謁見して都へ向いましたが、都は応仁の乱後の戦渦に荒廃し布教どころではありませんでした。ザビエルは時の実力者は大内氏であると実感し、山口を活動の場と考えました。山口では二ヶ月の内に500名の信者が出来たといいます。しかし、最初は好意的だった仏教徒たちも、ザビエル一行の仏教に対する批判を受け、次第に憎悪を増していきました。

 同年9月大分の豊後に来航したポルトガル船の船長ドワルテ・ダ・ガマの勧めで大友宗麟に招かれたザビエルは豊後を訪れ、好意を以て迎えられています。

 ザビエルはある程度布教が順調に進むのをみて、以前からの懸案であったインド布教を再度見直すためにインド渡航を決意し、今後のことをトルレス神父らに託して1551年11月16日豊後港から離日しました。

 

平戸のキリスト教の展開

 ザビエルが去った1553年ごろに活躍していた宣教師は、コスメ・デ・トーレス、ジョアン・フェルナンデス、ロレンソ、バルタザール・ガゴ、シルバ、アルカソーバ等が各地を巡回して活発に布教活動をしていました。平戸はこの時、既に彼等の活躍によって200名前後の信者があったといわれ、さらに1555年頃には平戸の信者も500名に達した言われています。松浦隆信は宣教師の歓心をかうために、キリシタンの墓地にあてる土地の貸与も行い、同所に十字架も建てています。隆信自身は切支丹となることを公言していましたが、実際には入信せず、隆信の親類であった籠手田安経、一部勘解由(かげゆ)兄弟を代わりに入信させました。籠手田氏は領地も多く生月の館浦、度島、獅子、春日、飯良、白石で、一部氏は生月の一部、根獅子を領していました。
以後、籠手田、一部両氏は熱心なキリシタンとして平戸地方における信者の庇護者となっていきました。(平戸地方のかくれキリシタンのほとんどが、この時の籠手田、一部両氏の領民の子孫です。)

 領主、隆信が入信をほのめかしたのはポルトガルとの交易によって得られる大砲や鉄砲などの武器を豊富に購入するため、ポルトガル商人に影響力があった宣教師との友好関係を保ちたかったに違いありません。次第に信者の数も増え、駐在していた宣教師パードレ・バルタザル・ガゴは信者の為に忙しく働きました。

 しかし、キリシタンにとっていつまでも順風が吹いているとは限りませんでした。1557年頃から熱心に布教活動を行っていたビレラは、あまりの熱心さが災いし、度々仏教徒との争いがおき、1558年ついにガスパル・ビレラは平戸から追放されてしまったのです。

 一方、生月島の籠手田定経の庇護を受け、パードレの命によって子ども達に洗礼を授ける教徒までいたのでした。そして。平戸のキリシタン信者にとって不幸な事件が起こってしまいました。1561年、平戸とポルトガルの間におこった「宮の前事件」です。ポルトガル船員と平戸商人が商品の値段について口論し、死傷者をだす惨事となってしまったのです。これまで、平戸とポルトガルは宗教的な摩擦はあっても、貿易については比較的良好な関係を保っていましたが、この事件をきっかけに急速にキリシタンの関係も冷え込んでしまいした。

 ポルトガル側はこの「宮の前事件」を遺憾に思い、翌1562年7月にポルトガル船は平戸を避けて大村領横瀬浦へ入港するようになりました。大村領主大村純忠はポルトガル船を歓迎し、教会も建てられました。そして、1563年の上旬、純忠は家臣20名とともに受洗し、日本最初のキリシタン大名となり、ポルトガルとの結び付きを強固なものにしています。

 このころ、ルイス・フロイスも来日し、横瀬浦を拠点とした布教活動を行なっていましたが、大村にて内乱が起こり、貿易と布教の拠点であった横瀬浦は兵火によって焼失してしまいました。フェルナンデス、ルイス・フロイスは乱を避けて平戸の度島に難を逃れています。度島は籠手田氏の領地で、全島が信者であった言われています。さらに両名は生月でも巡回布教を行い、度島滞在中は日本語の文法書や辞書を編集しています。さらに生月の一部氏の領地であった根獅子部落も、一部夫人の許可を得て改宗し、十字架を建立し会堂もできています。

 この機会に平戸ではポルトガル側の歓心を得るために1564年、道可隆信はフロイスに対して、神父の平戸駐在と教会建設を認めました。これをうけて建立されたのが天主堂「天門寺(みやどりのサンタマリア教会)」です。この天門寺はカブラル、コスタ、フェルナンデス、ゴンザルベスの4人が常駐し、九州北西部の拠点として平戸を含む博多以西の教区を受け持っていました。
この教会でフェルナンデスは平戸の少年等にラテン語の祈りや歌を教えましたが、現在生月地方で伝承されている「御誦(うたおらしょ)」はこの時代のものでしょう。

 

キリシタンの禁教から弾圧への流れ

 1567年キリスト教徒及び宣教師達にとって不幸な事件が起こってしまいました。根獅子教会の管理人であったトメー(元僧侶)が、領主一部氏の夫人の命により殉教したのでした。またこの年の6月12日平戸を巡回中のフェルナンデスが平戸において病没したのでした。(現在彼の埋葬地は不明です。)このころ上京していたフロイス、ロレンソは信長から布教の許可を得て、中央での活動を軌道に乗せ、平戸でも然したる障害も無く、布教活動が続けられていました。

 しかし、1582年、平戸キリシタンの最大の庇護者であった籠手田安経が没します。彼の死は平戸地方におけるキリシタンの大打撃であり、信者にとって平戸の領主松浦隆信に対しての最大の防波堤でした。キリスト教徒の今後が危ぶまれる中、一つの光明として1586年大村純忠の娘メンシア(松東院)が、松浦法印鎮信の嗣子久信に嫁いで来ました。
メンシア12才、久信15才でした。大村との和睦の證としての輿入れです。その後メンシアは平戸キリシタンの庇護者となっていきます。

 このように平戸の信者にとっても、不幸と幸が繰り返されつつ、中央でも次第に弾圧の傾向が強まりました。1587年7月、豊臣秀吉による宣教師追放令が発布されました。その主な内容は「日本は神国であるが、宣教師は日本国内で信者を思いのままに増やし、神社仏閣を破壊した。
故に二十日以内に国外に退去せよ。」というものでした。

 これは現在松浦史料博物館に保存されている松浦家文書の内容です。
この条文を皮切りにキリスト教は禁教の時代に突入していきました。秀吉は宣教師に対して、平戸からポルトガル船に乗って帰国するよう命じていますが、これに対し、クエリヨ以下全宣教師は平戸沖の度島(ナンドサンナンド=度島北側海岸)に集合し、協議の結果、中国に帰る者以外は、全員九州に潜伏する決意を固めています。 

 翌年、秀吉はイエズス会領であった長崎、茂木、浦上を没収し、鍋島飛騨守信生が長崎代官となっています。 一方、1590年、東インド管区巡察使バリニヤニは天正少年使節一行を伴って長崎に上陸、キリシタン信徒の組織化を図ると共に、各種の出版物を刊行し、翌91年2月には、秀吉と謁見しています。バリニヤニは帰途平戸に立ち寄り、メンシア松東院を訪ね、メンシアの信仰の深さに感激しています。そしてこの年の11月、メンシア松東院は松浦家の嗣子長男隆信(宗陽)を生み、松浦家内での存在を示し、夫久信の愛情をより強く受けるようになりました。

 しかし、1592年、松浦鎮信(法印)は領内の宣教師追放を命じ、いよいよ領内での禁教策が強まり、各地での取り締まりが始まろうとしていました。その反面、松浦隆信(宗陽)はメンシア松東院の熱い願いにより、籠手田定経の未亡人イザベラより受洗しています。このように1590年代の平戸は、禁教と信仰の入り混ざった状況にありました。

 1597年、いよいよ平戸のキリシタン取り締まりが、井元権右衛門によって開始されました。キリシタンにとって事態は最悪の結果となりました。それまでは度島全島がキリシタンと言うほど、熱心な信仰が続けられていましたが、この取り締まりによって、あるものは殉教し、あるものは逃亡もしくは転びといった具合いに度島のキリシタンは壊滅しました。長崎ではこの年の2月二十六聖人の殉教がありました。そして平戸キリシタンにとって決定的な出来事は1599年、平戸キリシタンの守護者籠手田一族600名(信者を含む)の追放(長崎亡命)でした。理由は法印鎮信の父隆信の葬儀に参列しなかったとのことですが、籠手田家は松浦家にとっても重要な家柄で簡単に処分出来なかったことと、一族の勢力と松浦家の内紛を避けるために、長崎亡命を認めたのではないでしょうか。
これで平戸のキリシタンは支柱を失い、殉教そして潜伏の時代に入っていくこととなりました。

 

殉教の時代から潜伏へ

 1609年、井上八郎兵衛は藩命により、生月キリシタンの世話役西玄可及び妻子を処刑しました。西玄可は籠手田氏の代官で、長崎退去後
の生月のキリシタン信徒の世話役として活躍した人物です。玄可は火刑を望んだといわれますが、父母の墓所黒瀬にて断罪、同地に葬られ
ガスパル様と呼ばれています。この年の夏、時あたかもイギリス商館が平戸に設置され、オランダ、次いでイギリスと、平戸が西欧との貿易の期待に沸き立っていたときです。

 翌年1月、徳川家康はキリシタンの禁令を発布し、長崎の宣教師は総て追放され、大名高山右近は長崎に護送、11月にマニラに追放されています。そして平戸においてキリシタンを敵視していた松浦鎮信(法印)は5月に亡くなるものの、メンシアにより受洗した跡継ぎの平戸藩主隆信は幕命によって長崎の教会堂を焼却し、キリシタン信者を捕らえています。この事は母メンシアにとって筆舌に耐えがたい心境ではなかったでしょうか。

 1622年4月24日平戸でも宣教師潜入事件が発覚していました。イタリアイエズス会司祭カミロ・コンスタンツオが潜伏先の宇久嶋で捕らえられ、生月の宿主ジュアン坂本、ダミアン出口も連座して捕らえられたのです。司祭は1605年に来日し、14年に一時マカオに追放になっていたのでしたが、21年再入国し、潜伏して佐賀、唐津、平戸などで布教活動を行っていたのでした。この時捕らえられた坂本、出口両名は、5月中江の島において殉教。6月にジョアン次郎右衛門が中江の島で殉教しました。そして今回の事件の主人公カミロ・コンスタンツオは9月に田平において火刑となりました。

 1624年3月には、ジョアン坂本、ダミアン出口の家族が中江の島で殉教。その外、生月、薄香、川内、田の浦、追廻でもキリシタンの大殉教がありました。その後1630年になると平戸のキリシタンの最後の望みであった松浦松東院(メンシア)は幕府の命により宗族と共に江戸廣徳寺へ移りました。更に追い打ちを掛けるように1635年2月、薄香、獅子、根獅子のキリシタン72名が殉教しました。そして1639年平戸キリシタンにとっても、平戸藩にとっても重大なキリシタン嫌疑事件が発生しました。浮橋主水事件です。平戸藩を震憾させたこの事件はその後のキリシタン取り締まりはいうに及ばず、過去における海外交渉やそれに繋がる関係書類の隠滅などのふしが有り、現在の諸研究に大きな影を落としています。

 1645年、生月、獅子、根獅子、で最後の殉教がありました。
藩ではこの年より宗門改奉行を置き、踏絵が始められました。平戸の場合は長崎奉行所より踏絵を借り受け、実施していました。今、東京国立博物館に保存されている踏絵は、長崎奉行所よりの移管品です。
以後平戸のキリシタンは潜伏の時代へと入ります。

 

潜伏から復活とかくれへ

 潜伏キリシタンとは、文字通り自らの存在を表面上かくし潜伏して信仰を続けたキリシタンをいいます。この潜伏する上で、地域的な特徴がそれぞれあるようですが、平戸地方での形態を大まかに言うと、「納戸神信仰」でしょう。これは、表面上座敷に神棚を祀り、それぞれの仏壇を備えて、一般の家庭と変わり無いように取り繕い、そのの実は、家の奥、納戸にキリシタン祭具を飾って信仰を続けたものでした。平戸地方での主な御神体は掛幅状のものが多く、その画面には具象化されたデウスの姿やキリスト、マリア、聖人などの人物画が大和絵風に描かれたものがあります。そのほかメダイやロザリオなど布教時代の遺物も信仰の対象として祀られているようです。こういった信者は地域的な地下組織を持ち、外部との接触も注意を払ったことでしょう。平戸地方の主なものは獅子、根獅子、飯良で、隣の生月島にも組織がありました。

 

復活の機会

 日本のかくれキリシタンにとって復活の機会になったのは、1865年長崎の大浦天主堂の落成がそれでしょう。日本国内に潜伏キリシタンの存在を思い、開国後に横浜や長崎に渡来していたフランス人宣教師のうち、長崎に来たプチジャン神父はフェーレと共に大浦天主堂を建立しました。
同年神父はフランス寺見物と称して天主堂を訪れた浦上の潜伏キリシタンに信仰の告白をうけて、信徒の発見を果たしました。これを「キリシタンの復活」といいます。復活とはカトリック教会の教階制に入るということです。
 1871年(明治4)、明治政府は宗門人別帳廃止を決定し、信教の自由を認めました。

 

平戸地方のかくれキリシタン

1、組織の形態
○白石・春日・・・講(現在は崩壊)
○獅子・・・・・・組(現在は崩壊)昔は160戸の家16の組。
   爺さん役・・死者送りの役。
   水の役・・・お水授け(洗礼)。
   マジナイ役。
○根獅子・・・触(四触・松山・中番・美野・崎)四、五軒で慈悲仲間を組織。
   辻方・・・根獅子辻家が最高指導者。
   水の役・・四触に七名。
   触役・・・各触に一名。
○生月
   爺さま役・・お水かけ(洗礼)を任務。最高指導者。
   上方には一部在二人、堺目一人、元触三人。
   下方には山田、正和、日草に一人づつ。
   御番役・・・爺さま役の下に一~三人。納戸神の番役
   (宿元・つもと)
   コンパンヤ・・御番役の下に一~七あり。
   御(み)弟子を頭に数戸の家族から成る小集団。

2、納戸神とお姿
 かくれキリシタンの信仰形態にはマリア観音信仰と納戸神信仰ご有名で五嶋・外海地方ではマリア観音、平戸・生月地方では納戸神がある。
 マリア観音は観音像もしくは慈母観音像をマリアに見立てて信仰する。 納戸神は人目に付かない納戸に、お掛絵といわれる軸物やメダイ、浮世絵、人物画などをキリスト、マリアとして信仰するものである。

3、オラショ
○生月
   生月ではオラショのことを「ご経文」
「ごしょう(御誦)」(うたオラショを言う)
「ご恩礼」という。
○根獅子
 根獅子では「おつとめ」「お仕事」という。
 オラショは祈りの意味のポルトガル語で、布教時代にはたくさんの出版物が発行された。生月では張番を立てて警戒しながら声を出して共誦したと言う。
 根獅子では男子が三十才ほどになってからオラショをならうが、戸主だけで女は習わない。

4、クルスのしるし
 クルスつまり十字架はキリシタンのしるしである。これらは2種類の使い分けを行っている。先ずは右の親指を額、口、胸に当てながらクルスの文を唱える方法である。
 これは額に唱える時は悪念、妄想を除く時に、口に取る時は悪口を、胸に取る時は心より出る悪しき所作を除くためにクルスを唱えるという。次いで右手を額から胸まで、左肩から右肩までを動かすクルスである。これはキリストを思い起こすために行う。これらは地域や組織によって多少変化する。
 生月の場合はまず親指で額と口と胸に三本の横木と額から胸までの一本の縦木持つクルスと、額から胸までの一本の縦木と左肩から右肩までの一本の横木を持つクルスである。

5、お水
 お水とは聖水のことである。生月では中江の島の「お水」、根獅子ではもと教会が有ったと言われる「おろくにんさまの井戸」の水である。これらの「お水」は儀式のときによく使われる。

6、船魂入れ
 生月では新船を建造すると必ず中江の島にお参りして災難が無いように祈る。
 船魂入れは爺役がお水授けのオラショをしながら「お水」を打つ。

7、おまぶり
 平戸・生月系にだけあるもので、生ずきの白紙を四方5、6センチの十字に切り抜いたも ので、今は障子紙で代用している。
 切る日は所によって違うが、それぞれ爺役が身を清めてからお水を打ち清める。正月や三月の節句に家族に配るほか、死者や牛に持たせたり食べさせたりする。

8、死者の埋葬と回向
 潜伏時代は幕府や藩の役人の目が厳しく、寺請けの制度などもあって、勝手に死者を埋葬することは出来なかった。そこで仏式の葬儀、埋葬の後、信者による再度の埋葬儀式がとられるのである。五嶋や外海地方では「送り」(臨終の人の耳
 元でオラショをとなえる)を行う。または 坊さんのお経の後 「お経消しのオラショ」を唱えたりする。生月・根獅子の場合は爺役が「もどし」といって霊魂を神のもと、パライソ(天国)にもどすオラショを唱える。
 埋葬は根獅子の場合「ニコバ」と呼ばれる聖地に死者の顔が向くように埋葬される。

9、復活しない訳
 復活とは明治四年信教の自由が認められて、今までの禁制下密かに信仰を守ってきた信徒が、再びローマカトリック教会の組織下に入ることを言う。「かくれキリシタン」とは、以前の禁制下同様に伝来の信仰形態を守り、復活をしないのでこう呼ばれる。
 ではなぜか復活しないのか。
1、先祖の伝統形態を守り続けることが正しいとする考え方。
2、仏教、神道を隠れ蓑として来たが、いつのまにかその域を超えて精神と生活に定着し、神を祀るのに矛盾を感じ無くなり、カトリックへ復活することにより、神仏や先祖の位牌を捨てるこになるので隠れ続ける。
3、先祖から受け継いだ習慣を放棄すると、罰を受けるという恐れ。

10、現況
 現在生月、根獅子に組織が存在し、「かくれキリシタンの里」として全国に知られるが、その伝承はもはや風前の灯し火といった感がある。
 それは永年の潜伏による信仰の変態と忘却、それに最も深刻なものは後継者の不在である。実際根獅子の大正時代には飯良(根獅子の隣部落)、昭和になって獅子部落の組織が崩壊している。そして平成5年現在、根獅子の組織も崩壊したと伝えられた。もう伝承は行わないそうである。
 このように1550年ザビエルの布教と共に根をおろしたキリシタンの組織も生月だけとなってしまった。しかし生月島でさえも後継者不足に組織崩壊の危機に直面しているのも事実である。

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