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平戸のキリスト教の展開

 ザビエルが去った1553年ごろに活躍していた宣教師は、コスメ・デ・トーレス、ジョアン・フェルナンデス、ロレンソ、バルタザール・ガゴ、シルバ、アルカソーバ等が各地を巡回して活発に布教活動をしていました。平戸はこの時、既に彼等の活躍によって200名前後の信者があったといわれ、さらに1555年頃には平戸の信者も500名に達した言われています。松浦隆信は宣教師の歓心をかうために、キリシタンの墓地にあてる土地の貸与も行い、同所に十字架も建てています。隆信自身は切支丹となることを公言していましたが、実際には入信せず、隆信の親類であった籠手田安経、一部勘解由(かげゆ)兄弟を代わりに入信させました。籠手田氏は領地も多く生月の館浦、度島、獅子、春日、飯良、白石で、一部氏は生月の一部、根獅子を領していました。
以後、籠手田、一部両氏は熱心なキリシタンとして平戸地方における信者の庇護者となっていきました。(平戸地方のかくれキリシタンのほとんどが、この時の籠手田、一部両氏の領民の子孫です。)

 領主、隆信が入信をほのめかしたのはポルトガルとの交易によって得られる大砲や鉄砲などの武器を豊富に購入するため、ポルトガル商人に影響力があった宣教師との友好関係を保ちたかったに違いありません。次第に信者の数も増え、駐在していた宣教師パードレ・バルタザル・ガゴは信者の為に忙しく働きました。

 しかし、キリシタンにとっていつまでも順風が吹いているとは限りませんでした。1557年頃から熱心に布教活動を行っていたビレラは、あまりの熱心さが災いし、度々仏教徒との争いがおき、1558年ついにガスパル・ビレラは平戸から追放されてしまったのです。

 一方、生月島の籠手田定経の庇護を受け、パードレの命によって子ども達に洗礼を授ける教徒までいたのでした。そして。平戸のキリシタン信者にとって不幸な事件が起こってしまいました。1561年、平戸とポルトガルの間におこった「宮の前事件」です。ポルトガル船員と平戸商人が商品の値段について口論し、死傷者をだす惨事となってしまったのです。これまで、平戸とポルトガルは宗教的な摩擦はあっても、貿易については比較的良好な関係を保っていましたが、この事件をきっかけに急速にキリシタンの関係も冷え込んでしまいした。

 ポルトガル側はこの「宮の前事件」を遺憾に思い、翌1562年7月にポルトガル船は平戸を避けて大村領横瀬浦へ入港するようになりました。大村領主大村純忠はポルトガル船を歓迎し、教会も建てられました。そして、1563年の上旬、純忠は家臣20名とともに受洗し、日本最初のキリシタン大名となり、ポルトガルとの結び付きを強固なものにしています。

 このころ、ルイス・フロイスも来日し、横瀬浦を拠点とした布教活動を行なっていましたが、大村にて内乱が起こり、貿易と布教の拠点であった横瀬浦は兵火によって焼失してしまいました。フェルナンデス、ルイス・フロイスは乱を避けて平戸の度島に難を逃れています。度島は籠手田氏の領地で、全島が信者であった言われています。さらに両名は生月でも巡回布教を行い、度島滞在中は日本語の文法書や辞書を編集しています。さらに生月の一部氏の領地であった根獅子部落も、一部夫人の許可を得て改宗し、十字架を建立し会堂もできています。

 この機会に平戸ではポルトガル側の歓心を得るために1564年、道可隆信はフロイスに対して、神父の平戸駐在と教会建設を認めました。これをうけて建立されたのが天主堂「天門寺(みやどりのサンタマリア教会)」です。この天門寺はカブラル、コスタ、フェルナンデス、ゴンザルベスの4人が常駐し、九州北西部の拠点として平戸を含む博多以西の教区を受け持っていました。
この教会でフェルナンデスは平戸の少年等にラテン語の祈りや歌を教えましたが、現在生月地方で伝承されている「御誦(うたおらしょ)」はこの時代のものでしょう。

 

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