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 生月学講座No.175 「定置網の謎」

生月学講座:定置網の謎

昨年末の12月10日に「定置網の歴史と文化を探る」というシンポジウムを行い、氷見市立博物館前館長の小境卓治氏、京都府立丹後郷土資料館元資料課長の井之本泰氏、東北大学教授の川島秀一氏、東京学芸大学准教授の橋村修氏など、各地で定置網の歴史や文化を研究されている方々に御参加いただきました。またコメンテーターには長崎県総合水産試験場主任研究員の舛田大作氏を迎え、水産学と現場からの視点で御報告とコメントをいただきました。
小境先生の基調講演を伺い、富山湾の定置網は「面」的な展開だと感じました。江戸時代の絵図を見ると、氷見の沿岸には一定の間隔で沖に向かって最高10もの連続した定置網の連なりがあり、湾奥に定置網が並ぶ三角形の海面が存在していました。富山湾の江戸時代の定置網は「台網」という形態ですが、江戸時代初期には行われていた事を示す確かな史料が存在し、少なくても戦国時代頃までは遡るだろうというお話でした。
西海の定置網の最も古い形態は「大敷網」ですが(今日定置網を「大敷網」と呼ぶのもその名残りですが、漁法的には「落網」という形態です)、山口和雄氏の説では、大敷網は江戸時代の始め(17世紀初頭)に現在の山口県下関市湯玉で発生し、九州方面に伝播したものだとされてきました。しかし平戸周辺で大敷網の存在が確認できるのは18世紀初頭以降で、山口説に従うと100年間のタイムラグがあります。また大敷網の湯玉発祥説についても証明できる近い時期の史料が確認されておらず、再検証が必要でした。
そこで、歴史的に古い富山湾の台網が、江戸時代に日本海を西進して西海に伝わり大敷網が始まった可能性について、シンポで検証してみる事にしました。井之本先生が報告される丹後については、伊根湾で行われていた断切網(入り江の口を網で仕切って中の魚などを取る漁法)が基本的に定置網と同じ仕組みであり、定置網の起源とともに、富山湾と西海を結ぶ地点だという所も期待したのですが、丹後の定置網については明治30年(1897)高知県から日高式大敷網が導入されて始まったもので、台網の創始や伝播の痕跡は確認できませんでした。橋村先生が報告された五島については、中世以来の「加徳」と呼ばれる漁場権の個人による占有形態が残っていて、他領の漁業資本家が大敷網を始めるに際して(村方による漁場支配に比べて)行いやすかった点などが興味深かったのですが、大敷網の開始時期については平戸同様、明確ではありませんでした。川島先生の報告からは、三陸の大網と呼ばれる大謀形態の定置網の技術伝播が、漁民の移動によって行われた状況が分かり、大敷網でも同様の展開があった可能性を見いだす事ができました。
私の報告では、西海の大敷網には、ダイという主要な浮き(竹を束ねた物)が網奥と平行して付けてあるタイプ(横ダイ型)と、網奥から話して直交する方向に付けているタイプ(縦ダイ型)がある事に触れました。横ダイ型の方が古く、それが同様の形である富山湾の台網からの伝播ではないかとも思ったのですが、西海の横ダイ型にはダイの上に松の木などを立てる習俗が見られるのに対し、富山湾の台網のダイではそれが見られず、両者は別物と捉えるか、影響があったとしても中間(山口辺り)でワンクッション置く必要があるのかも知れません。(2018.2)