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 生月学講座No.181「かくれキリシタンの変容」

生月学講座:かくれキリシタンの変容

 今年に入ってのかくれキリシタンを巡る論争の中では、「変容」が焦点になっています。以前はかくれ信仰は禁教時代に宣教師が不在となり、信者が勝手に信仰形態を変容させた所産だとする禁教期変容論が主流でした。しかし今次の論争では宮崎先生も私(中園)も禁教時代の変容については否定的に捉えた上で、それ以前のキリシタン信仰において、日本的な信仰要素が流入したり、現世利益的な様相があるのを「変容」「キリスト教ではない」と見なすか(宮崎)、そうした様相こそ当時のカトリック信仰のあり方そのものだと捉えるか(中園)で、意見を戦わせているところです。
 私は、禁教時代は教義を担う宣教師の不在によって、信者は信仰形態を概ねそのまま継承せざるを得なかったという「凍結保存」説を採っているのですが、そう言いながらも変容が全く無かったと考えている訳ではありません。例えば生月島では、任期制の役職である御爺役の選任の際に、ホウニン(法人)という民間宗教者(シャーマン)の託宣を参考にする事が行われていますが、これなどは宣教師が判断する事を、神下ろしという形で代行させた「変容」だと理解しています。
 復活以降も変容は起きています。生月島で研究者の調査が始まった昭和初期以降、御前様(御神体)を常設祭壇や祠の形をしたオコクラに祀るようになったのもその一つです。最近報道などでよく取り上げられる壱部の種子・大久保津元の親父役宅・川崎家などは、座敷にお大師様、仏壇、御前様、神棚が並び、かくれ信者の信仰並存状態を紹介するのに大変分かりやすい風景なのですが、これについては昔、平屋の時代には納戸の簡易祭壇で祀られていたものが、昭和40年代に二階屋に建てかえた時、足で踏む形にならないよう二階に常設祭壇を設けて祀るようになり、さらに近年、賑やかな座敷で祀る方が御前様も嬉しいだろうという川崎さんのお考えで座敷に移した結果、成立したものなのです。
「お水取り」行事も、もともと生月島では壱部、堺目、山田と元触の上川垣内の信者が中江ノ島で行っていて、元触の辻、小場垣内は島の西側海岸や上場池のカワで行っていました。しかし十年程前にNKHの取材が行われた際、他の地区でお水取りの予定が無かったため、取材していた辻の信者さん達に依頼して、わざわざ中江ノ島でのお水取りをやって貰った経緯がありました。しかし当然それは昔からの形ではありません。
 安満岳の奥の院についても、山田のオラショの「神寄せ」などに「安満岳の奥の院様」が登場するのですが、もともとかくれキリシタン信仰の脈絡で奥の院へのお詣りや行事が行われた事は確認されておらず、信者は「お山講」などの並存する信仰の脈絡でお詣りしていました。しかし近年、安満岳の白山神社の祭礼においては、元触辻の信者さんがお詣りしてオラショを唱える事が行われています。
 個人の信仰の自由が保障された現代においては、信仰内容が信者の主体的な考えで変化しても、非難されるものでは全くありません。しかし変化後の状況が過去からずっと続いてきた事のように誤解を与えないようにする必要はあります。先に紹介した安満岳でオラショを上げる様子を撮影した写真が、世界遺産の「公式」ガイドブックに何の説明も無く紹介されている事なども、誤解を与えかねない紹介の仕方だと言わざるを得ません。(2018.8)