公益財団法人 平戸市振興公社

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 生月学講座No.188「鯨組の技量継承」

生月学講座 鯨組の技量継承

江戸時代の益冨組の経営を見ると、利益の最大化と経費の最小化を追求した点で、こんにちの企業経営に近い合理的感覚を有していた事が窺えます。健全な経営のためには、無駄がなく利益が上がる活動を持続しなければなりませんが、そのためには従事者が高い技量を維持して、各自の専門的役割を確実に果たす事が必要とされます。
 益冨組の沖場(捕獲部門)では、最初に網を掛けて鯨の行き足を止める網掛は、瀬戸内海の田島などから雇った大網の扱いに慣れた漁民に委ねられました。鯨を網に追い立て、網に掛かった鯨に銛や剣を打つ勢子船の、8丁の櫓の漕ぎ手である水主(加子)12人は、友押というリーダーが率いる一つの村の出身者で構成されましたが、顔見知りである事から息を合わせて櫓を押すことができました。また鯨に銛や剣を投げ、動きを止めた鯨に泳ぎ着いて手形切り(鼻切り)や胴の下に綱を渡す役目をする「ハザシ(羽指)」は、西海各地の潜水漁(海士漁)を行う村から専ら雇われました。一方、納屋場(陸上部門)にも、渚に寄せた鯨を段取りに沿って手早く捌く「捌き方」の他、解体された皮脂肉から鯨油を煎り取ったり、塩漬け肉、乾燥させた筋、鯨髭を作る等、素材や製品に応じ様々な作業を行う人がいて、さらに銛や包丁を作る鍛冶屋や、樽・桶を作る桶屋も雇われていました。他に、従業員の賃金や食料、漁や製造に必要な薪その他の資材を調達する役目を担った「帳役」も、五百人を超える鯨組を活動させるためには重要な役職でした。
 これらの役職の技量の維持は、その低下が鯨組全体の効率の低下に結びつくだけに、充分な配慮がなされていました。例えば益冨・御崎組の勢子船のハザシは、一番船か二十番船までの序列があり、その順番で賃銀にも差がありました。特に一番から三番までの船のハザシは「親父」といい、6艘の双海船(網船)を指揮するミトの親父とともに漁の指揮に当たりました。あるハザシが漁期中、沢山の鯨に一番銛を打つなど活躍すると、来期はより若い番号の船に「出世」し、賃銀も上がりました。漁の経験を積み上げて出世する事で、自然と漁全体を統括できるようになっていったのです。ハザシ間でも技量の向上が図られたようで、呼子を本拠とする生島組の掟を見ると、大事な事は役ハザシから若ハザシに教え、若ハザシも気が付いた事は申し出て、少しも怠り無いようにするのが重要だとされていました。また出世や役への取り立ても、贔屓ではなく、役に立つ者を取り立てるようにとも書かれていました。
 江戸時代の鯨組でこのように技量の継承が配慮されていたのに比べると、今日の行政や企業の方が、時間を掛けた人材育成や技量の継承に、充分な配慮をしていないように思えます。少数の熟練者に頼りきりで業務を支える一方で、技量継承が困難な短期での異動や、不安定な雇用形態の非常勤やバイトを多く宛てる配置によって現場は弱体化しており、加えて現場外から責任ばかりを追求するような社会のあり方が現場を疲弊させ、人材育成にもマイナスに働いているように思えます。太平洋戦争の敗北の原因も、情報収集・判断の重要性についての認識不足とともに、技量教育体制の貧弱さや不合理な精神主義と対をなす、飛行機や戦車の薄い装甲が象徴する人材軽視にあった事を、日本社会は今一度学び直す必要があるのかも知れません。(2019.3)