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 生月学講座No.192「古式捕鯨業時代の鯨の生息数」

生月学講座:古式捕鯨業時代の鯨の生息数

今年(令和元年)7月から、日本近海で商業捕鯨が再開される事となりました。小型砲殺捕鯨船が沿岸で、大型砲殺捕鯨船が沖合で操業する事になりますが、捕鯨の正否は、鯨肉需要の拡大と共に、対象鯨種の生息数のなるべく正確な推測と、それに基づく持続的な捕獲枠の設定、そしてその捕獲枠を厳守する管理体制にあると考えられます。もし昭和63年(1988)以前の近代捕鯨業のように、利益追求に走って乱獲を再現するようならば、もはや世界はおろか国民の支持も得る事はできないでしょう。
 古式捕鯨業の段階には、櫓漕ぎや手投げ銛など人力や自然力に基づく漁法に拠る事や、幕府の対外政策によって漁場も沿岸部に制約されていたため、捕獲圧はそれ程高くなかったと思われますが、それでも折々に鯨の減少は起きていたようです。享保5年(1720)制作の『西海鯨鯢記』には、昔は鯨が来ない海や浦は無く、(平戸島の)薄香や田助でも捕鯨が行われていた程だが、近年鯨は減っているとし、原因として従来の突取法では、銛を突いた鯨のうち7割を取り逃しており、その中からも銛の傷がもとで死ぬ鯨が多いからだと推測しています。
 延宝5年(1677)に発明された、予め鯨に網を掛けてから鯨を突き取る網掛突取法では、捕獲にかかった鯨を確実に取れる率が上がり、また突組では一つの漁場に多くの組が集まり乱獲になりやすかったのですが、網組では一漁場で操業する組は通常一組なので、乱獲になり難かったと思われます。そのため網掛突取法が主流となった18世紀には、各漁場では安定した操業が続いたようです。しかし18世紀末頃には不漁の時期があったようで、寛政11年(1799)に記された「九州鯨組左之次第」では、壱岐の勝本・前目という優良漁場で操業していた土肥組は、享保年間から不漁になる事は無かったが、近年は5~60本より多くなる事は無く、壱岐だけでなく九州全体で不漁だとしています。
また19世紀の初め頃と思われる、的山大島に壱岐の鯨組が入漁する事に隣接する生月島の益冨組が反対を唱えた文書には、次のように記されています。「昔は大島に限らず、どこでも鯨が多く来ていたので、御崎(生月島)と大島の両方で組を立てても、御崎組の方にも相応に漁があり、もし漁がない年が数年続いても、全体的には鯨が良く取れていたので取り続ける事が出来ました。しかし近年は様子が違ってきて、御崎組の方も鯨の回遊が無くなってきており、稀に鯨を沢山取っても、全体的に鯨の大きさは小振りです」。これを読むと、近年鯨の回遊が少なくなっている事と共に、鯨体が小さくなっている事が分かります。魚の場合、高い捕獲圧が続くと次第に早熟になり、魚体も小さくなる事が知られていますが、古式捕鯨業時代にも、長年の捕獲によって、主要な対象である背美鯨などに一定の捕獲圧が掛かっていた可能性もあります。
 西海捕鯨の鯨の漁獲は、弘化年間(1844~48)以降急速に悪化します。その原因は日本海で操業する欧米の捕鯨母工船が増加し、彼らの捕鯨によって、西海に回遊してくる背美鯨や座頭鯨が減少したからだと思われます。しかしそれ以前から、背美鯨などに長く一定の捕獲圧がかかり続けてきた事で、欧米の捕鯨船の操業によってダメージを受け、一気に減少した可能性もあると考えます。
(2019.7)