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 生月学講座 No.082「カミロ神父と中江ノ島の殉教」

 慶長19年(1614)、幕府は伴天連追放文を全国に発令します。これによってキリシタンは国法によって禁止となりますが、依然各地には大勢の信者が存在し、カトリック教会も彼らに聖務を続けるため、長崎を中心に多くの宣教師を潜伏させていました。

 元和8年(1622)、イエズス会のカミロ・コンスタンツォ神父が平戸に入りますが、『日本切支丹宗門史』によると、平戸の町には当時、外国人を含む多くのキリシタンがいたと記されています。彼はさらに生月島の舘浦に渡り、五島小値賀島の属島・納島に3日間滞在し、五島領の宇久島に渡りますが、そこで役人に捕えられ、平戸に護送されます。カミロ神父はその後、平戸の対岸にある焼罪(田平町)で9月15日に火あぶりの刑に処されましたが、「1622年度殉教報告」には、当時平戸に入港していた蘭英連合艦隊の乗組員達が大勢、処刑の様子を見に来たそうです。なお9月11日には、神父と行動を共にしていた同宿・ガスパル籠手田も長崎で斬首されています。

 累は神父を助けた信者達にも及びます。『日本切支丹宗門史』によると、生月島で神父に宿を提供したヨハネ(ジョアン)坂本左衛門(31歳)と、五島行きの船を用意したダミヤン出口(42歳)は、5月27日に中江ノ島で処刑されましたが、出口は船中で漕ぎ手を手伝い賛美歌を唄いながら櫓を押したそうです。6月3日には船頭で堺目出身のヨアキム川窪庫兵衛(47歳)が、6月8日にはヨハネ次郎右衛門(47歳)が処刑されましたが、次郎右衛門は棄教の印に異教の札を飲み込む事を拒否して死刑の宣告を受け、中江ノ島に渡る船の中で「ここから天国は、もうそう遠くない」と言ったといわれています。さらに平戸のガブリエル一ノ瀬金四郎も7月26日に死刑宣告を受け、生月に連行されて処刑され、同日、船頭のヨハネ雪ノ浦、パオロ塚本も生月で斬首されたとされます。

 さらに寛永元年(1624)には、先に処刑された信者の家族も捕らえられて処刑されます。3月5日には、ダミヤン出口とヨハネ坂本の家族達が、中江ノ島の地獄という所で殺されましたが、坂本の年長の子供達3人は一緒に昇天できるように、俵につめられた上で一緒に縛って貰い、首に別の袋を被せられた後、海に投げ込まれたといいます。

 平戸藩側の記録にも、「三光譜録」79に「其後生属の才吉、又作、惣次郎、源右衛門四枚帆に伴天連壱人乗せ、多久島納島獅子村などへ来り候を、井上八郎兵衛聞付、宇久島の内神の浦にて捕へ、四人は首を刎ね伴天連は長崎へ被遣候事」とあり、「宗陽公以来之物」にも、伴天連を宇久島で召し取った功で松浦隆信(宗陽)から井上右馬允に感状が出されたとあり、西玄可の処刑に関与した井上氏が本件でも主導的役割を果たしたことが窺えます。また「平戸領古切支丹類族存命帳」にも、生属島里村の治郎右衛門と妻・なつが寛永元年に数日曝された後で簀巻きにされ海に沈められたという記事がある他、「三光譜録」79にも「翌寛永元年生属の姫宮の神前にて島中の男女を集め、宗旨立帰り候様にと、牛王に誓詞血判を(井上)八郎兵衛為致候時、雪浦次郎兵衛斗りは転び申間敷と申候故、大勢の中にて次郎兵衛夫婦男子一人共に竹簀巻にして即座に海に沈め申候」とあり、島民全体に対し、熊野誓詞を用いた棄教の確認が行われた事が記されています。しかし実際には、信仰組と信仰は存続した事が、かくれキリシタン信仰の存在から分かります。