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 生月学講座 No.075「御崎の歴史」

 生月島の最北端にある御崎(みさき)は、御崎浦の地峡部より北側を範囲とする、生月島北部の半島状の地域です。元浦・水の浦・トマリには湾入があり、それらの東側には谷地が存在しますが、後はなだらかな台地状の地形で、海岸の多くは切り立った断崖となっています。

 ここは古くは「牧(まき)」と呼ばれ、『延喜式』にある「生月馬牧」もここではないかと考えられています。それに関連して、寿永3年(1184)に源義経と木曽義仲の軍勢の間で起こった宇治川の先陣争いの際に活躍した名馬・池月(いけづき)が、ここで生まれ育ったという伝説もあります。「生月人文発達史」には「生月の牧の地は上古より馬牧場であった。西部絶壁の所に名馬草と称する草がある。容易に食するを得ざるも之を食したる馬は名馬となる。彼の池月も此草を喰ひ 又鯨島に泳ぎ渡り同所の牧草を喰いし為め名馬となり 頼朝の所望に依り献したのである云々」とあります。生月の名も池月から来たとする説もあるのですが、実際には名馬・池月の伝説は日本各地に分布しています。

 加藤氏・山田氏などが島を支配した中世や、籠手田氏・一部氏が支配した戦国時代には、これらの領主勢力の存在に伴って軍馬の牧が存在したと思われ、御崎はそうした牧に利用されたと思われます。江戸時代にも御崎の原野は平戸藩の御料馬牧場として使用されていますが、文政9年(1826)に獅子村春日に牧場が移転し、御崎の地は生月島民に払い下げられています。それに際して壱部、堺目、元触集落から入植が行われ集落が成立しますが、この集落は江戸時代の地図には「牧村」という名称で掲載されています。なお入植者はかくれキリシタンだったので同信仰も導入されていますが、興味深い事に御崎内で独立した信仰の組を形作ることはなく、それぞれ出身集落の組(垣内・津元)に属していました(但しお札の組である小組については、出身集落毎に御崎内で組を作っていました)。氏神についても御崎集落独自では持たず、出身集落毎にそこの氏神を奉じているそうです。 『先祖書』(益冨家文書)によると、生月在地の鯨組・益冨組は、享保14年(1729)に鯨組の根拠地であり鯨の解体・加工を行う「納屋場」を御崎浦に移し、それ以後、明治30年代に生月捕鯨組が操業を終わるまで、170年にわたって納屋場として利用されています。その間、鞍馬鼻、高り(大バエ鼻)、鯨島(けしま)、旦那山などには鯨を見張る山見が置かれ、鞍馬と鯨島の沖は鯨網を張る網代として利用されています。なお馬牧場返還後も、益冨組は御崎集落に対し、山見の土地と山見まで行く道の権利を確保しています。

 一方、元浦の沖には、享保年間に大規模定置網の漁場が置かれ、益冨家が捕鯨に伴ってその経営権を保持し、おもに鮪が捕獲されましたが、現在も元浦とトマリの定置網漁場が盛んに操業しています。

 御崎集落西側のミンチマと、北端のたかりには、昭和に入って砲台が設けられ、特に前者には15センチ砲2門が設置されています。御崎全域も要塞地帯となり多くの兵隊が駐屯しましたが、昭和20年には空襲を受け、塹壕掘りに動員されていた島民が死亡しています。