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 生月学講座 No.069「ヴィレラ神父の籠手田領一斉改宗」

 一五五六年六月、現在の中国の広東の近傍にある波白澳から、ベルショール神父とガスパル・ヴィレラ神父が乗船したポルトガルの定航船が、日本に向けて出帆します。船は無事、豊後の大友領に入港し、当地にいたトルレス神父、ガーゴ神父らに迎えられます。ベルショール神父は病気のため程なく日本を去りますが、イエズス会に入会して間もないヴィレラ神父は布教への情熱に燃え、豊後にいる間に日本語に習熟し、弘治三年(一五五七)九月に、ギリエルメ修道士とともに、二隻のポルトガル船が入港していた平戸に入り、博多に発つガーゴ神父に代わって当地の布教に専念する事になります。
 既に、松浦氏の重臣である籠手田安経はガーゴ神父によって洗礼を受け、ドン・アントニオという洗礼名を貰っていましたが、永禄元年(一五五八)にヴィレラ神父は、籠手田領である生月島南部、度島、平戸島西海岸で、領民の一斉改宗に着手します。フロイスの『日本史』には「度島、生月の島々と、獅子、飯良、および春日で説教が始められた。そして人々が受洗し、デウスのことについて良く理解したことを示すにつれて、司祭は、あちらこちらの寺社からどんどん偶像を集め、うずたかく積みあげ、それでもって非常に大きい焚火をたいた」とあり、情熱に任せた破壊的な行いもあったようです。ヴィレラ神父自身の報告では、二ヶ月で千三百名が入信し、三カ所の寺院を教会に転用したとあり、ガーゴ神父の報告によると、そこにいた僧侶もキリシタンに転宗したそうです。
しかし収まりがつかないのは、御神体を焼かれた仏教や神道の方です。特にその頃、強大な勢力だった、平戸島中部の安満岳、南部の志々伎山を拠点として活動する山岳仏教(修験道)の僧侶たちは、松浦隆信に対してヴィレラ神父の処罰を要求し、もし実施されなかったら、隆信の身も危険になり反乱も起こる可能性もあると警告します。そのため隆信は、止むを得ずヴィレラ神父を平戸領内から追放します(永禄元年の七月頃と推測されます)が、神父はその後、博多から豊後に戻り、さらに京都に向かいます。
 松浦隆信は、教会を閉鎖したものの、籠手田安経や入信した領民達に対して棄教を強制することはありませんでした。しかしこれまで取っていたキリシタンに対する協調的な姿勢は、この事件を契機に変化していったようで、領内ではキリシタンと非キリシタンの対立が深刻になります。例えばヴィレラ神父の追放直後、平戸で、ポルトガル人と日本人商人の間で商売絡みの傷害事件が起きます。その際、非キリシタンの日本人が集まってポルトガル人を襲撃しようとしたのに対し、日本人キリシタンが数多くかけつけてポルトガル人を保護して事なきを得ます。
その時の布教の影響と思われる要素を、今日のかくれキリシタン信仰の中に認めることができそうです。生月島では集落毎に「津元」「垣内」という組が複数組織され、集落内の家々が属し、家の戸主が行事に参加するのが本来的な形です。つまり、村落の枠組みがそのまま信仰の組織に利用されている訳です。このような形は、個々人で信仰に加わっていった場合は考えにくいのですが、集落全体が一斉に入信したために、既存の村落組織をそのまま活かして組織化がされたのではないかと考えられるのです。