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 生月学講座 No.081「アメリカと平戸における捕鯨銃の運用法」

 2月20日(土)生月中央公民館で、生月ボランティアガイド協会が主催する捕鯨ミニシンポジウム「世界の鯨文化の中の生月」が開催されました。この行事には、アメリカ・ニューベットフォード捕鯨博物館主任学芸員のスチュワート・フランク博士にご参加いただき、国内からは和歌山県の太地町立くじら博物館の櫻井敬人学芸員と、佐賀県立名護屋城博物館の安永浩学芸員に参加していただきました。シンポでは、最初にスチュワート氏によるアメリカ捕鯨についての基調講演があり、その後、櫻井氏、安永氏と私(中園)による太地、呼子、生月の捕鯨の歴史や文化についての報告と、スチュワート氏を交えての意見交換が行われましたが、とても内容のある講演や報告で、来場者からは「とても良かった」「日本各地の捕鯨についてはもっと話が聞きたかった」などといった好反応でした。途中では、スチュワート氏によるアメリカの鯨取り達の歌と、生月勇魚捕唄保存会による唄の披露や、若葉グループによる新しい鯨産品メニューの試食も行われ、大盛会でした。

 今回の行事の前後には、スチュワート氏を交え、主として欧米捕鯨やそれに関係すると思われる日本の捕鯨の諸相について意見交換が行われ、前日には、島の館が所有する銃殺捕鯨関係資料の検証が行われました。銃殺捕鯨は明治15年(1882)から昭和22年(1947)頃にかけて、主として平戸瀬戸で行われた捕鯨法で、ライフル銃形式の捕鯨銃を用い、火薬の力で破裂する弾体(火矢)を鯨体に打ち込んで仕留めるものです。島の館には捕鯨銃や火矢などの実物の他、当時の捕鯨の様子を描いた絵馬や、図面などが保管されています。最初に問題になったのは捕鯨銃(火矢)の運用法で、アメリカでは以前からの突取捕鯨のプロセスに組み込まれて運用され、最初に銛を打ち、鯨に船を曳かせて疲れた所で捕鯨銃を使って仕留める形でしたが、平戸瀬戸では、最初に捕鯨銃を撃って仕留め、その後、鯨体の沈下を防ぐために銛を打つという、アメリカとは逆の形を取っている事が分かりました。なお平戸瀬戸で使用された捕鯨銃は、アメリカ製のブランド式捕鯨銃のオリジナルやコピーが用いられている事も改めて確認されました。

シンポの翌日には、松浦史料博物館で『大島 小値賀 寄鯨一件』という巻物を拝見しました。この資料は、安政2年(1855)に的山大島に漂着した長須鯨から見つかった洋式銛について図解したものです。描かれているのは、アメリカで製作された銛先が動く形式のテンプル銛と呼ばれる銛で、資料作成当時に使用されていた形式だそうです。銛先部分には「S.CARAVAN」「JT」という文字が刻んでありますが、スチュワート氏によると、JTとは銛を作る職人のイニシャルで、CARAVANは捕鯨(母工)船の名前(キャラバン号)だとの事でした。同資料には小値賀島で発見されていた返りが左右対称の固定銛の図も掲載されていましたが、これも当時使われていたものだそうです。アメリカの捕鯨(母工)船は、好みで、様々なタイプの銛を使用していたとの事でした。なお、銛が刺さっている鯨が長須鯨と記されている事について質問すると、スチュワート氏は、アメリカの捕鯨船は抹香鯨や背美鯨に限らず、座頭鯨や長須鯨などを取る事もあったと教えてくれました。今回の事業は、私にとっても、捕鯨についての見聞を広げられた良い機会となりました。