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 生月学講座 No.063「明治時代の大敷網」

 長崎市に会議などで出張のおりには、翌日出来るだけ県立長崎図書館の郷土室に立ち寄って、生月関係の資料などを確認したり、複写や写真撮影をしています。特に明治時代の長崎県の行政資料には、生月に関する情報が沢山載っていて興味をひかれます。
例えば、明治三一年(一八九八)の『第五課事務簿 漁業之部』という資料の中には、舘浦対岸の白石にあった鮪網代(漁場)についての報告書が載っています。当時は生月村の大川虎助氏と、平戸村の川渕久次郎氏が共同で経営していました。網の種類は大敷網といいますが、こんにち生月で大敷網といわれる定置網の構造(落網)とは異なっていました。鮪の漁期は、八月から一一月迄の秋網と、一二月から翌四月迄の冬網の二期に分かれ、特に九~一〇月と一二~一月が盛漁期でした。西風や北西風、北風が吹くときには良く漁がありましたが、あまりにも強いと漁になりません。また潮流も、満潮後より干潮までの間に魚がよく来ましたが、大潮になると、ナカラビ(潮止まり)までは網の側も沈んで、漁にならない事もあったようです。
 当時の大敷網は、簡単に言えば、ちりとりのような形の本網の入口の両側に、ハの字に開く袖網(道網)を延ばし、袖網伝いにきた鮪群が本網に入ると、本網の口にある口揚網を上げて遮断し、その後網をたぐって鮪群を奥に追い込んで捕獲しました。さらに冬網では、袖網の先にさらにハの字に開いた袖網を設け、その入口に設けた起こし網(口揚網)で、鮪群の退路を早めに断つようにしていましたが、これは明治以降の改良のようです。
 網は藁綱製で、錘に石を詰めた袋を、浮きに束ねた竹を用い、藁縄や苧縄で固定していましたが、巨大で、かつ交換用の網も必要なため、使用する苧や藁、竹や石も膨大な数量を要しました。本網は、奥に向かって段々と網目が小さくなりますが、網目が一尺目以上の手前側を「大目」、それ以下の奥側を「奥」といい、奥の網を上げて鮪を取りました。また最奥部には袋網という網があり、普段入る魚を取る仕掛けになっていました。また本網の陸地側横には「井楼」という、浮きを台にして四本柱を立てた櫓を設けていました。
 昼の漁は、井楼から山見が監視していて、網に魚が入ったのを確認すると、采と呼ぶ道具を振って曳舟に知らせます。まず手前の起こし網を上げて退路を断ち、さらに魚群が本網に入ると口揚網を上げてから、船に乗った多くの漁夫が本網をたぐっていき、最後に奥に追いつめた鮪を、鉤で船上に引っかけて上げました。なお夜間は、交替で数艘の船を本網の口や奥の方に置いて監視し、海の中の燐光を見て、鮪群が入ったのを確認しました。
秋網は曳船四艘、冬網は曳船八艘と団平轉馬二艘で漁にあたり、漁夫は、曳船一艘に三~四人、団平轉馬に八人が乗り組みました。沖ノ側船の船頭を網匠といい漁の総指揮を取りましたが、網匠は、網の構造から漁法に至る総てに通じていました。地ノ側船の船頭は向役といい網匠の補佐役でした。各船には船頭の他、舳持、仲持、艫持などの役職があり、彼らは漁以外の時は、納屋で網の修繕や準備などの雑務をしました。また山見(魚見役)という役は、日中は井楼に登って魚群を見張るのが役目でした。
 当時の白石鮪網の収支は、漁期中の漁獲高が二,四五〇円に対し支出は二,百四〇円で、網主の利益は三一〇円に対し、漁夫の平均所得は三〇円程だったそうです。