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 生月学講座 No.060「生月島民の戦争体験6 満州からの引揚」

 山田の松永一成さんからお伺いした満州からの引揚体験をご紹介します。
 満州というのは、現在の中華人民共和国の東北地方の昔の呼び名です。そこは昭和6年(1931)に起きた満州事変で日本軍が占領し、満州国という国が建国されましたが、当時の満州は「王道楽土」といわれ、何百万人もの日本人が移り住んでいました。松永さんの父親も昭和9年頃に満州に渡り、建設会社の事務員をしていましたが、その後生月から妻子を呼び寄せました。家族は大連や鞍山などにも住みましたが、終戦間近の昭和20年頃には遼西省の綏中(スイチョン)という所に住んでいました。その頃、父親は、満州を守る軍隊に召集されてしまい、家には母親と兄弟4人が残されたそうです。
 昭和20年(1945)8月8日、ソ連は日本と結んでいた中立条約を一方的に破棄し、満州に攻め込んできました。満州を守る日本軍は、最強の部隊や兵器を全部南方に送り出していたため、またたくま間に敗北してしまいました。父親も捕虜となり、シベリアに送られて何年か強制労働に従事した後、日本に帰ってきました。
 8月15日に日本は無条件降伏します。これで戦争は終わったのですが、心配なことに、戦いに勝ったソ連軍の兵隊がたくさん進駐してきたのです。当時のソ連兵は規律が悪い事で有名でした。しかも町に残った日本人は、ほとんど女子供や老人など無抵抗な者ばかりでした。そんな中、松永さんの家も襲撃を受けます。ある日、ソ連兵2人と通訳の中国人1人が家に入ってきて、鉄砲の先に付けた銃剣で天井や壁などを手当たり次第に突いて物色し、何も無いと分かると、今度は母親を乱暴しようとしたのです。その時母親は「乱暴されるくらいなら、家族一緒に殺して下さい」と大声で叫びました。10歳の姉も6歳の松永さんに「ここでみんな一緒に死ぬんだよ、もう日本には帰れないよ」と言ったそうです。家族5人は部屋の隅に並ばされて銃を向けられ、もう終わりだと思った時、ソ連兵は中国人に何か話したかと思うと、立ち去って行きました。家族は泣きながら抱き合って無事を喜びました。また母親と姉が、生活費を稼ぐために吸い殻から作った煙草を街に売りに行き、大勢の中国人から石を投げられ、血まみれになって帰ってきた事もあったそうです。松永さんも家の外で遊んでいる時、ソ連兵が中国人をずらりと並べ、機関銃で銃殺しているのを目撃したそうです。
 昭和21年5月になって、やっと日本への引揚ができることになりました。綏中の駅からしばらくすし詰めの貨物列車に乗った後、港がある壺蘆島(コロ島)という所まで何日もかかって歩きました。家族は、はぐれないようにしっかり手を繋いで必死に歩きましたが、途中ではぐれたり遅れていく人も沢山いました。漸く港に着いて、出船間際の引揚船に乗ろうとした時、3歳の弟が疲れ切って動けなくなり、他の家族は全員乗っているのに、一人だけ置き去りになりそうになりました。その時、船員さんが走っていって、弟を抱えて船上に放り上げてくれたので、何とか家族全員引揚船に乗ることができたそうです。