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 生月学講座 No.071「明治前期の生月島の産業について」

 明治時代は生月島にとって変動の時代でした。それまで島の基幹産業だった捕鯨業は、幕末の弘化年間(1844~48)以降、不漁が原因で衰退し、担い手だった益冨組も明治7年(1874)に廃業しています。それ以降も生月島の御崎浦を拠点とする網組は継続しますが、明治38年(1905)に旧平戸藩士の峯寛次郎が鰯和船巾着網を導入する迄の間、島は主だった基幹産業が不明瞭な時代が続いています。
 当時の生月島の状況を、明治16年(1883)に制作された『長崎県地誌』の情報から探ってみましょう。当時、島の北部は生月村、南部は山田村に属し、各々4,040人、2,033人の人口でした。改正後耕地面積は生月村で田75町8反1歩、畑225町4反6畝6歩、山田村で田68町5反22歩、畑175町1反6畝12歩で、農業関係の産物は生月村では米596石 麦680石 大豆300石 小麦8石 蕎麦22石1斗、実綿800斤、菜種64石、子牛756頭とあり、山田村では米570石、麦500石、大豆67石5斗、蕎麦50斗、甘藷44万斤、粟3石2斗、実綿370斤、子牛260頭とあります。これによると米と裸麦の生産はほぼ同量で、田の裏作にも裸麦が植えられたと思われる他、畑作物として生月村の大豆、山田村の甘藷が目立っています。なお生月村内には上堤、金石田、丸田、下、幸四郎、榎田、加場など、山田村内には吉永、犬場、渋柿などの農業用の溜池が所在していましたが、面積は最大でも5反程で、谷地に開いた水田に水を供給する程度だったと思われます。また両村とも多くの子牛が飼育され使役牛として売買されていますが、その関係で生月村に牧(東西3町南北5町)、山田村に山頭野(東西約5町南北約3町)などの牧野が記載されています。なお他地域の記載にあって生月島の記載に無いものとして薪炭材があります。鯨油や鮪油の生産には莫大な量の薪が必要でしたが、山が低い上に土地の制約がある生月島内で薪炭を自給する事は不可能で、平戸島側から輸入していたと思われます。
 海産物では、生月村で鯨15頭、鮪30,000斤、鯛4,000斤、鰤5,000斤、シイラ15,000斤、鯣15,000斤、鱶鰭150斤、鮑2,700斤、甘海苔・和布葉7,000斤、石花菜1,000斤などが、山田村では鮪1,000尾、鯛4,000斤、鰤4,500斤、シイラ17,000斤、鯣4,000斤、鱶鰭50斤、乾鮑1,200斤、海参50斤、海老1,100斤、布海苔800斤、和布葉2,000斤、石花菜400斤などの記載があります。生月村の鯨は益冨組の廃業後、御崎浦の操業を引き継いだ生月捕鯨組の操業によるもので、大量の鮪や鰤は主に沿岸に設置された定置網(大敷網)による漁獲と思われます。シイラは秋の二艘引網により、鯛は春を中心とする釣りや延べ縄、鯣は冬や夏の烏賊釣りによる漁獲と思われますが、いずれも小漁師が主体となる漁です。鯣、鱶鰭、鮑、海参(ナマコ)などは中国への輸出品(俵物)として江戸時代から取引が多い海産物ですが、特に鮑は海士(潜水)漁で捕獲されたものと思われます。総じて江戸時代の漁業形態が継続している印象を持ちますが、当時、他の西海地域では既に盛んになっていた鰯網が全く行われていない事が、特徴として上げられます。