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 生月学講座 No.017「キリシタン時代・舘浦・山田の教会の所在地を推理する 」

 生月島は、南部の籠手田領が1558年、北部の一部領が1565年に一斉改宗を受け、それに伴い各集落に教会が設立されています。それらの教会のうち舘浦・山田地区の教会の位置を検討してみたいと思います。籠手田領の改宗を報じた記録で、ヴィレラ神父が領内にあった寺院を教会に代えたとありますが、1561年に生月を訪れたアルメイダ修道士は、この教会の特徴を次のように報告しています。
 彼らの有する教会ははなはだ大きく、かつ優美であり、彼らが非常によく整えているので、見て楽しむにふさわしいものであった。後に私が実見したように、この家屋は600名以上を収容することができる。(中略)この家屋は野にあって美しい林に囲まれているので、外から見ることができず、はなはだ清潔で荘厳な入口を備えている。教会に上がる階段の下に水槽があり、裸足で歩く貧者がここで教会に入る前に足を洗う。それは儀式ではなく、ただ家屋に敷き詰めた敷物を汚さぬようにするためであり、これが日本人の習慣なるがためである。(中略)この地所に沿って一本の川が周囲を巡るように流れており、ほとんど要塞のようになっている。
アルメイダ修道士は同年、この既存の教会から1里(4㌔)離れた村に教会を建てており、籠手田領であることと距離から推測して、新教会は堺目に建てられたと考えられますが、それと同時に既存の教会は舘浦・山田地区でも比較的南にあったと思われます。次にフェルナンデス修道士の報告によると、トルレス神父が滞在した1563年の1月に、信者千名が教会から十字架まで行列をなして歩き、新しい十字架の完成を祝ったという記事があり、その中で教会から十字架までを4分の1里(1㌔)としています。この十字架については、アルメイダの報告に、度島から生月島に渡る船上で、高地に立つ十字架が見えたとある事と、禁教時代に降った1609年、西玄可(ガスパル様)が以前十字架が立っていた場所で処刑し葬るよう要望している事から、現在の殉教地・ガスパル様の場所(黒瀬の辻)でほぼ間違いないと思われます。それで黒瀬の辻から1㌔の地点とすると、この既存の教会はやはり、舘浦近傍にあったことになります。
ここでもう一度、アルメイダ修道士の記述を見ると、第1に教会は野にあるとあり、これで舘浦の住宅密集地の中には無かった事が分かります。第2に最も重要なヒントとして、地所に沿って一本の川が巡るという記述があります。舘浦周辺の川としては、比売神社の下を北西に遡り(現在は暗渠)農協支店附近でいくつかに分流している流れがあります。この支流の一本は西南に蛇行して山田小学校南側の谷をのぼっていますが、その川の南側に、現在、生月観音が所在する丘があります。この丘は昔から「ドンノヤマ(堂の山)」と呼ばれ、以前から教会があったと考えられてきた場所です。しかしこことは別に、正和にある修善寺跡も候補地としてあり、『田舎廻』には、切支丹が居た所を焼討した跡に同寺が建てられたとしています。しかしここと黒瀬の辻は200㍍程と近すぎ、土地も手狭で、川と呼ばれる流れもありません。アルメイダは、籠手田領内には小堂を転用した小教会がいくつかあったと記しており、ここはそのような小教会の一つだったと考えられます。