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 生月学講座 No.008「生月島民の戦争体験1 島民の戦争-中国戦線の記憶」

 今年の八月十五日で「あの戦争」が終結して五十五年が経った事になります。今の子供達に「昔、戦争があって」と話しても、歴史上の出来事程度の興味しか持てなくなっているようです。しかし、満州事変から日中戦争、太平洋戦争に至るおよそ十五年間におよぶ戦争では、島からも多くの人々が戦地などに赴き、四百七人もの人が還らぬ人となりました。生還された人も亡くなった方が多くなり、戦争の記憶も失われつつあります。
元触の吉田惣祐さんの従軍記録は、まさに十五年間の戦争の歴史そのものです。吉田さんは明治四十三年生まれで、昭和五年に徴兵され、大村にあった歩兵四十六連隊に入隊し、中隊付きの衛生兵に配属されました。昭和六年には、日本の関東軍が今の中国の東北部にあたる満州全土を制圧する満州事変が起きますが、翌七年には日本人の居留地があった上海で、日本の海軍陸戦隊が中国軍と戦闘を始めます。吉田さんは、陸戦隊を救援する部隊に加わって呉松に上陸します。その時の戦いはひどく、中隊の第一小隊は中国軍に包囲されて全滅してしまいます。また同じ部隊にいて仲が良かった壱部浦出身の浜崎さんもその戦闘で戦死されましたが、死に際に「吉田、吉田は居るか」と自分を呼びながら死んだと聞かされ、助けにいけなかったのを大変悔しく思ったそうです。その時は呉松を占領した後、部隊は大村に帰還し、その後吉田さんも徴兵期間を終えて生月に戻ります。
昭和十二年、北京郊外の蘆溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争が勃発します。吉田さんは召集を受け、久留米にある歩兵第二十四連隊の衛生隊に配属され、部隊とともに上海の近くの杭州湾に上陸します。日本軍はそのまま、当時の中華民国の首都・南京を目指しますが、吉田さんの部隊は、南京の手前まで来て陥落の知らせを聞いて引き返しました。その時は部隊長も「これで戦争も終わって帰れるだろう」と話していましたが、部隊は船に乗ると、今度は南の広東に向かい、そこに駐留しながら、周辺地域に出ていっては中国軍と戦う「討伐」作戦を続けました。広東地方は雨が多く、時に腰まで水に浸かっての進軍は大変辛かったそうです。暫くするうちに吉田さんは除隊となり、生月に戻りました。
昭和十六年には海軍がハワイのアメリカ艦隊を奇襲攻撃し、太平洋戦争が勃発します。開戦と当時に、陸軍はマレー半島とアメリカの植民地だったフィリピンに上陸します。吉田さんも再度召集を受け、フィリピンのケソンという所にある病院に勤務します。その時は既に戦いも終わっていたので、比較的楽な勤務でした。上官からも「残るのだったら曹長に昇進できるぞ」と言われましたが、吉田さんは除隊の方を選んだそうです。
昭和十八年に入ると連合軍の反撃が始まり、日本軍は次第に押し戻されます。吉田さんは三度目の召集を受け、広東の近くの飛行場守備隊勤務を命じられますが、海では多くの輸送船が潜水艦に沈められていたので、下関から朝鮮半島の釜山まで船で渡り、はるばる汽車に乗ってやっと目的地に着きました。昭和二十年になると、南方に大部隊を送って手薄になった満州の守りを固めるために、部隊は満州に移動する事になりましたが、当時は鉄道も寸断されていたので、汽車に乗れる所は乗り、乗れないところは歩いて北を目指しました。しかし徐州まで来た所で、戦争が終わった事を知ります。その後満州でソ連軍に降伏し、シベリアでの四年間の厳しい強制労働を経て、やっと帰国することができました。
                               (2000年8月)