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 生月学講座 No.158「火縄銃と捕鯨銃」

今(平成28年)夏に九州国立博物館で開催されたトピック展示「火縄銃の世界」に、島の館所蔵の捕鯨銃が展示されたので、先日見学してきました。展示では戦国時代から明治時代にかけて日本やアジアで使用された様々な銃が紹介されていましたが、捕鯨銃はそれらのトリを飾る場所に展示されていました。
 見学の際には、九博で同展示の構成にあたられた望月さんにご解説いただきました。アジアにおける銃の歴史は、実はポルトガル人のアジア進出以前から始まっていて、中国では明の時代に「手把銅銃」という、棒の先に付けた筒から弾丸を発射するタイプの銃が使用されていました(宮崎駿監督のアニメ「もののけ姫」で石火矢衆が使っていた火器です)。ヨーロッパ人による鉄砲の伝来は、天文12年(1543)種子島の事とされていますが、先の明の銃とヨーロッパ人由来の銃の違いは、前者は火種を穴に押しつけて点火発射するのに対し、後者は挟んだ火縄をバネと引き金からなる装置を用いて点火発射する方法で、前者は点火動作と狙いを付ける事を同時に行うのが困難なのに対し、後者は狙いを定めた時に発射できるため、命中精度が高い事があります。但し後者についてもヨーロッパで一般的となった(緩発式)火縄銃と点火装置の仕組みが異なり、東南アジアで普及していた(瞬発式)火縄銃の仕組みに似ています。また鉄の銃筒を木製銃床に目釘で留めるのも日本の火縄銃の特徴です(外国のは責金という金属製の輪で締めています)。
 火縄銃が活躍した戦いと言うと、織田信長と武田勝頼の長篠の戦いが有名ですが、火縄銃の製造と使用が最も盛んだったのは、実は江戸時代に入った頃で、徳川による天下平定の戦いである大坂の陣では、徳川方、豊臣方ともに大量の火縄銃を用いています。トピック展でも展示されていた大口径の大鉄砲は、城門などの構造物を破壊するのに用い、全長3㍍を越える長大な狭間筒は、真田丸の戦いのような攻城・陣地戦の際に相手方を長距離狙撃するために用いました。しかし戦乱の終了と共に火縄銃は儀礼的な武芸の対象となり、様々な流派が起こるとともに、凝った装飾の銃が好まれるようになります。生月島では、番岳に詰めた遠見番が火縄銃を所持していて、異国船の接近を島民に知らせる合図として発砲する事になっていました。幕末に開国すると、雨でも発射可能な管打式の点火装置や、命中精度を高めるライフリング(発射する弾丸を回転させるため、銃筒内側に螺旋の溝を彫る工夫)、弾丸を銃尾から装填する仕組み、連発射撃機能などを備えた新式銃が大量に輸入されるようになり、火縄銃は旧式化します。そうしたなか点火装置を火縄から管打式に改造した銃も作られていますが、生月島の遠見番頭だった門川家に伝わった火縄銃の中にも、そのような銃があります。
 明治15年(1872)以降、平戸瀬戸などで行われた銃殺捕鯨では、アメリカのブランド式捕鯨銃をコピーした捕鯨銃が使用されますが、それを製作したのは元平戸藩の鉄砲鍛冶・国友卯十郎でした。日本の軍用小銃は明治13年(1870)に国産の村田銃が採用され、工廠で生産されるようになっていきます。捕鯨銃は、日本の火縄銃文化の終末点と見なす事もできるのです。 (2016.9)