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 生月学講座No.190「鯨肉の流通」

生月学講座:鯨肉の流通

平成30年11月、東彼杵町で開催された全国鯨フォーラムに参加する機会があり、事前に同町の中心地・彼杵と鯨の関係について調べてみました。
 彼杵は大村湾の舟運と陸上の街道の結節点に発達した町です。大村湾の再奥に位置する彼杵は、内陸へ物資を往来させるのに便利な場所でした。周囲を陸地に囲まれた大村湾は安全に船が往来できる理想的な舟運海域であり、早岐、針尾の両瀬戸で九州西岸の外海航路と接続しています。一方、彼杵から北に峠を越えると嬉野、武雄に接続する事から、古くから佐賀平野との物資の搬出・搬入に使われてきました。
 江戸時代、彼杵には長崎と畿内を結ぶ長崎街道の宿場「彼杵宿」が置かれました。街道は大村湾東岸に伸びていますが、湾南東部にある長崎の外港・時津と彼杵の間も渡船で結ばれていました。彼杵の船着場は当初は砂浜や河口が使われましたが、江戸時代には浜を開削して彼杵港が作られ、接岸した船から直接荷積み・荷下ろしが出来るようになります。
 安藤俊吉の「我国に於ける鯨体の利用」(『大日本水産会報』所収)によると、長崎県彼杵、佐賀県伊万里、福岡県芦屋が明治20年代における鯨肉の三大市場とされていますが、こうした場所は江戸時代以来の鯨肉の集散地でした。江戸時代後期の益冨組の記録によると、益冨組は福岡藩に稲の害虫であるウンカを退治する農薬になる鯨油を大量に納めており、鯨油は生月島御崎浦の納屋場から、船で筑前沿岸の横浜(今宿)、姪浜、福岡城下、津屋崎、芦屋などに陸揚げされ、内陸の農村に運ばれていて、鯨油の他に尾羽毛、片皮、赤身、小骨、吹腸などの鯨肉も送られています。彼杵にも大村湾内の舟運を利用して、五島灘などの捕鯨漁場で取れた鯨肉が荷揚げされました。彼杵鯨肉の社長を務める板谷さんのお話によると、昭和初期の彼杵の小売業者は自宅(店)販売の他、自分の縄張りの集落を回って行商しており、佐賀県側では嬉野、吉田、武雄などを回っていたそうです。また彼杵の商圏内では様々な鯨の部位が売られていましたが、皮身が好まれ、特に佐賀県の有明海沿岸では皮身や畝がよく売れたそうです。また季節的には年末に正月用の高級品(畝須、ベーコン)が売れ、山菜や野菜が出てくる春先には煮込み用の皮が売れたそうです。また流通拠点の彼杵では、鯨の皮身を入れたダゴジル(団子汁)、カボチャズウシ(雑炊)、皮身のお湯かけなどがよく食べられていたそうです。
 明治30年代になると、五島や生月島の網組は廃業していった事で、従来の漁場からの鯨肉の入手は難しくなります。一方で明治20年代末には長崎にロシアの砲殺捕鯨から供給された鯨肉が流通するようになり、明治32年(1899)以降になると日本でもノルウェー式砲殺法の試験操業や朝鮮半島での操業が始まり、明治39年(1906)には国内での本格操業も始まります。北九州の戸畑や関門海峡に面した下関は、各地のノルウェー式砲殺捕鯨で得られた鯨肉が集積され、北九州の工業地帯や筑豊の炭鉱地帯をはじめ、九州各地に鯨肉が流通しました。そうした流通に力を発揮したのは鉄道ですが、彼杵には明治31年(1898)に鉄道(現在の大村線)が開通しており、ノルウェー砲殺捕鯨で得られた鯨肉を鉄道を使って入荷する事ができました。鉄道によって彼杵は、近代捕鯨業時代になっても鯨肉の流通拠点としての地位を保持することができたのです。
(2019.5)