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 生月学講座 No.112「春日と舘浦」

 生月島の対岸にある春日は、平戸島最高峰の安満岳の西麓に位置する戸数30戸弱の集落です。現在は平戸島の西海岸を結ぶ道路で車やバスの行き来がありますが、昔は、海岸伝いに獅子の方に抜ける道はありましたが、白石から東に行く道は無く、春日から平戸に出るためには、一旦安満岳中腹の山野まで歩いて上り、中野に下って行くしかありませんでした。そのため春日の暮らしは、狭い辰ノ瀬戸を挟んで対岸の生月島、とりわけ舘浦と密接に結びついていました。病人が出た時には船で舘浦の病院に運び、一時期は、春日のかくれキリシタン信者がお授け(洗礼)を行う際は、山田の御爺役に来て貰っていました。一方、舘浦や山田の住民の中には、安満岳を「御山様」と言って信心する人達が多くいて、秋に行われる山頂の白山神社の大祭の時などには、大勢の人が春日や白石を通って山頂に詣りました。その時に通る、春日から安満岳に登る山道は、予め春日の人達が家1軒から1人が出る形で道掃除していましたが、これに対して生月の人達からお礼の酒が渡されていたそうです。また昭和初期には、春日で稲荷様を祀った所が霊験あらたかと評判となり、舘浦のまき網船の網主などの信心を集め、社殿の建立に寄付をしています。

 舘浦では明治末期以降、鰯和船巾着網が導入されて活況を呈し、昭和初期になると動力船によるまき網漁業へと発展し、それに伴う煮干しなどの製造業も大正時代以降盛んになります。そのため、製造のため働きに来た人も含め多くの人口を抱え、また、まき網船が遠方出漁するの際の煮炊きを船内で行うため、大量のタキモン(薪)が必要とされました。春日は、舘浦と指呼の距離にあり、背後には安満岳が聳えていて雑木には事欠かなかったため、タキモンを大量に切り出して舘浦に出荷していました。夏に伐採して現地に置いて乾燥させたものを、人がオイ(ショイコ)で背負って海岸まで下ろし、四尋船に積んで舘浦に運ぶと、キドンヤ(黒田家)に委託して販売して貰いました。

 春日の谷奥には近年、国の重要文化的景観にも選定された広大な棚田があり、安満岳の中腹にも開拓地(水田)があります。これらの水田には多くの肥料を必要としますが、昭和40年頃までは、舘浦からのコヤシ(人糞尿)に大きく依存していました。春日の農家は、昔から肥やしを取らせて貰っている特定の家の糞尿を汲み取り、天秤棒で担いで船で持ち帰りました。また魚の臓物など台所の生ゴミも別に取って置いて貰い、やはり定期的に集めて持ち帰りました。春日の海岸にはコンクリート製の槽が家毎に設けられ、持ち帰ったコヤシは一旦そこに貯めておき、海藻を入れて撹拌した後、水田に運んで施しました。藻も良い肥料になりますが、かつては春日と舘浦の間で協定を結び、春日の者が舘浦西南側のトボス付近の海藻を船から刈るのを許す代わりに、舘浦の漁師が春日の地先でカツギ(潜水漁)やカシ網をするのを許して貰っていました。

稲の害虫であるコムシ(ウンカ)の退治には、江戸時代は鯨油が広く使われましたが、春日では、舘浦の漁師からフカの肝で作った油(フカ油)を米と交換して入手し、水田の水面に撒きながら足で蹴って広げ、この水を稲株に掛けて虫を殺しました。

 春日と舘浦はこのように、長く経済面、精神面で相互依存の関係にあったのです。