島の館トップページアクセス・駐車場


記事一覧

 生月学講座NO.187「長州川尻と生月島の捕鯨漁民」

生月学講座:長州川尻と生月島の捕鯨漁民

平成30年12月、萩市で出身大学の研究室の会合があったので、ついでに長門市の川尻浦に立ち寄ってきました。同地に残る唐津市鎮西町名護屋浦出身のハザシの墓を見るためです。この墓の存在を知ったのは平成28年に島の館も紹介していただいたNHK番組「ファミリーヒストリー」を通してでした。その回では元ジャイアンツのピッチャー宮本和知さんを取り上げていましたが、彼の母方の先祖に名護屋浦で鯨組のハザシをしていた「福蔵」という人物がいて、取材にあたった制作会社ユーコムの鈴木さんから「福蔵について触れた資料を知らないか」と相談がありました。私は「名護屋浦の氏神の古里神社にある石造物に名前が刻んであるかも知れないが、他には心当たりが無い」と答えました。その後ユーコムでは地元の研究者・山田洋さんと古文書などを確認され、福蔵が有川湾などに出稼ぎに行っていた事などが分かったのですが、さらにその後、鈴木さんから山口県長門市の川尻浦で福蔵の墓が見つかったという報せがあったのには驚きました。
川尻を訪ねると、村はずれの海岸際にある、鯨の霊を供養するために昭和36年(1961)に建てられた「鯨鱗之霊」の傍らに高さ50㌢足らずの小さな墓石があり、その正面には「積海良功信士」という戒名が、右面には「明治三午年十一月四日」という没年が、左面には「名古屋海士町 福蔵」の名が確かに刻まれていました。
 幕末期、欧米の捕鯨母工船が日本近海で多数操業するようになり、背美鯨や座頭鯨の回遊が激減した事で、日本の古式捕鯨業は未曾有の不漁に見舞われます。生月島の益冨組もその影響で明治7年(1874)に捕鯨業から撤退しています。その後も呼子(小川島)、生月島、五島有川湾などで網掛突取法の操業が続けられますが、特に川尻浦では、欧米捕鯨の主対象でなかった事からそれ程減少していなかった長須鯨の捕獲を念頭に、比較的小型の網を小型の双海船に搭載して素早く網を張り回したり、音に反応しない長須鯨を本網に誘導するための縄網の導入などの改良を行い、成果を上げていました。その川尻鯨組には江戸時代から九州方面の捕鯨漁民が多く働きに行っており、『川尻捕鯨組二百二十年』によると、明治時代の川尻組には生月納屋、名護屋納屋など九州出身漁夫の宿泊施設が存在し、櫓の漕ぎ手の舸子(かこ)も大村湾岸の内海、千綿などから雇われていて、九州漁夫を統括する「九州親父」という役職まで置かれていました。
先の資料に「生月納屋」の名称があるように、生月島からも明治時代、ハザシ役などで大勢が川尻組に働きに行っていたようで、その事に関係する話を壱部浦の故・尾崎常男さんから窺った事があります。例えば島の館には「川尻ジバン」と呼ばれる丈が短い重ね縫いした上着を展示していますが、これは川尻に働きに行っていたハザシが向こうで着ていたものを持ち帰ったもので、大変暖かかったそうです。また川尻に行った生月島のハザシが鯨に乗って鼻切りを行っていた時、血まみれで見え難かったため地元の漁夫が誤って突き殺してしまった事があったそうです。後年その子供の今野国八さんが川尻組に働きに行くと、仕返しに来たのかと地元では大いに心配されましたが、今野さんが全くその気は無い事を伝えると、向こうの人達は大いに安堵したそうです。
川尻の網掛突取捕鯨は明治43年(1910)まで続いています。(2019.2)