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 生月学講座 No.096「キリシタンの墓地」

 生月島は、永禄元年(1558)の籠手田領、永禄8年(1565)の一部領の一斉改宗によって、全島キリシタンの島になります。このうち籠手田領の改宗について、永禄2年(1559)のガーゴ神父の書簡には、「彼(籠手田安経)は司祭(ヴィレラ神父)に伴って村々を巡り、説教をして改宗を勧め、寺院から偶像を取り去って教会に変え、幾つかの場所に墓地を造って、死者のために大きな十字架を建てた」と記されており、教会とともに、十字架を併設した信者の墓地が造営された事が分かります。

 永禄4年(1561)に生月島の籠手田領を巡回したアルメイダ修道士は、島南部の籠手田領のキリシタン墓地について、「(生月)島からおよそ一里の所に至った時、高地に一基の十字架が見え始め、その周囲には砦のような囲いがあった。」と記しており、十字架の回りに、塀で囲まれた墓地が設けられていた事が分かります。このように籠手田領のこの墓地は、教会から離れた丘の上に設けられていますが、ここにはキリシタンだけが埋葬されたようで、キリシタン以外の住民や戒律を破った信者の埋葬は禁じられていたようです。前述のアルメイダの書簡には、あるキリシタンの婦人が戒律で禁止された堕胎を行い、それが元で亡くなりますが、信者は、彼女を十字架の墓地に埋葬することを望まず、異教徒と同じように墓地の周りの土地に埋葬したとあります。キリシタン達は、この墓地に埋葬される事を望んだようで、慶長14年(1609)に処刑された信仰指導者・西玄可(ガスパル)も、自らの死刑の場所を、以前にクルス(十字架)が立っていた所にして欲しいと願い、その理由として、キリシタンである自分の全ての身内が埋葬されているからだと答えています。そして処刑後、彼の死骸をキリシタンの習慣に従ってそこに埋葬するため、自分が指定する人に渡して欲しいと要望します。殉教報告によると、実際に処刑の後、立ち合ったキリシタン達が彼の死骸を納め、以前、十字架の立っていた場所で、キリシタンの習慣に従って埋葬したとされており、この事から、こんにち聖地ガスパル様と伝承される黒瀬の辻の地が、キリシタン墓地だった事が確認できます。「黒瀬の辻」という名称も、恐らくはクロス(十字架)の辻(丘)が訛ったものです。

 生月島北部の一部領では、永禄8年(1565)のフェルナンデス修道士の書簡には、一斉改宗に際し、僧院(寺院)を教会に変え、境内に一基の十字架が立てられますが、これ以後、キリシタン達は同所に埋葬されることになったとあります。なおこの新しい教会で、子供達が歓喜しながら先祖の墓地を破壊したとも記されており、この事から、寺の隣接地には以前から墓地が営まれていた事が分かります。なお大分県臼杵市野津町下藤のキリシタン墓地では、以前から有った宝筺印塔などの石塔が破壊され、石材がキリシタンの墓の石囲いに転用された状況が確認されています。恐らくは、自らの強い信仰心を、仏教系の石塔を破壊する事でアピールしたのだと思われます。

 なお籠手田領だった堺目の殉教聖地・焼山でも、発掘調査の結果、長方形の石囲いが確認されています。焼山は、キリシタン時代に墓地として利用され、禁教以降、表だって利用や参拝が出来なくなったために無縁化し、不入の聖地になっていったと思われます。